集団疎開 1
禁じられた遊び 2
やってはいけない!.... 転轍レバーを!
国民学校4年の昭和19年初夏、予想される帝都空襲から学童を守るべく学童疎開が始まりました。1、2年生と集団疎開を希望しない児童は対象外のようでした。
疎開先は、何と、あの七つボタンの 「霞ヶ浦航空隊」 所在地から南西へ約8キロの竜ヶ崎町。今は、人口8万に近い地方都市。その宿舎は、関東鉄道の終点竜ヶ崎駅傍で、図右下の 「アパート」 の辺り。
小さな、行商人が使っていたであろう旅籠家のような旅館を借り切って、舎監の先生、お手伝いの数人のお姉さん、小母さん達との生活。数人毎に部屋が割当てられました。食事は部屋毎に 「ちゃぶ台」 を囲んで摂ります。ご飯のお代りは、ちゃぶ台毎の班長が部屋の中央に頑張っている小母さんの所まで出張します。小生は班長でした。その様子を、たまたま父兄参観で来所していた父が見て 「哀れに」思ったのか、その何日か後に東京に連れ戻されてしまいました。(別項で後日譚)
通学も部屋単位で班となり、宿で過ごす他の班と一緒に通学。学校までの道程は、都会のもやしのような子供には遠く辛いものでした。遊びも、自然に班毎になっていました。ひ弱だった小生でも、東京とは違う野原の風情の中で遊ぶのは楽しかったですね。そんな平和な日が続きましたが、日頃気になっていたことを実行するため駅に向かいました。
有刺鉄線の向こうの貨物ヤードへは入ってはならないと知りつつ侵入。その先には、貨物向けの引き込み線のレールが何本か見えました。線路の分岐の状態が手に取るように見えました。分岐点それぞれの片側に、重そうな 「レール転轍レバー」 が見えました。触れてはならない近くの 「レバー」 を発作的に押してしまいました。向うの方から、怒声!
磯村 栄一