ネットインタビュー (18 前編)
古代遺跡シーギリヤ物語
姫野 忠 さん
昨年7月、姫野 忠さんからメールを頂戴しました。足かけ14年に亘るスリランカでの事業に終止符を打ち帰国されたとのことでした。
姫野さんには一昨年、グリーティングカード・コンテストで賞品となった 「スリランカの貴石」 を中心に 「小生の海外生活を振り返って」 と題し興味あふれる記事を寄稿いただきました。
南国での気楽な生活とはおっしゃりながらも、2004年12月にはスマトラ沖大地震による津波被害など大変な事態も目撃されました。その間k-unetの活動にもご支援をいただき誠にありがとうございました。
今回、平成20年幕開けのネットインタビューに、この姫野 忠さんにご登場いただき、「光り輝く島・スリランカ」 に思いを馳せて語っていただくことにしました。
前編は 「古代遺跡シーギリヤ物語」後編は 「セイロン紅茶と宝石採掘」 のお話しを伺います。
Q1. TVでスリランカの世界遺産シーギリヤ・ロック (Sigiriya Rock) をみました。
熱帯ジャングルの中に存在する特異な遺跡?
1875年にイギリスの探検家が望遠鏡で岩山を観察していた際、壁面に不思議な女性像が描かれているのを発見しました。熱帯ジャングルに千年以上の間、埋もれていた 「シーギリヤ・レディー」 と呼ばれる一群の壁画が日の目を見たのです。広大な岩山を総称してシーギリヤ・ ロックと言いますが、スリランカでも特異な文化遺産です。
文化遺産の説明をするためには、その国の歴史の概略をご理解いただく必要があります。
スリランカの歴史は紀元前500年くらいまでさかのぼることができます。紀元前241年にはこの国の文化の基礎となった 「仏教の伝来」 があります。今日までの2500年以上に亘る歴史の内容は、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの外国支配が及ぶ以前と以後に二分されます。外国支配前の時代を 「王朝文化時代」 ということができます。スリランカの文化遺産の多くがこの 「王朝文化時代」 のもので仏教寺院や仏像が主となっています。
Q2. シンハラ王朝とチョーラ王朝
シーギリヤはいわゆる 「文化三角地帯」 の中にある名所として旅行案内書にもよく紹介されています。この地域には王朝文化時代の遺跡が多くあります。スリランカの多数派民族であるシンハラ族が長期にわたって王朝を維持しましたが、遷都は3回行われています。一番古い都がアヌラダプーラで、紀元前5 世紀から紀元後10 世紀までと長く続きました。10世紀末に南インドのチョーラ王朝軍によりアヌラダプーラが占拠されたため、都はポロンナルワに移されました。しかし、13世紀後半に、再びチョーラ王朝軍の侵攻を受けることになったシンハラ王朝は都を中央部のキャンディーに移しました。タンパデニヤ、ヤーパフワ、クルネーガラ、ガンポラといったところを移動して、1474年にキャンディーに移り落ち着きを得たといえます。
シーギリヤ・ロックのあるシーギリヤにも11年間という短い間でしたが都が存在したようですが、首都変遷の記述にはその名前は現れておりません。にもかかわらずシーギリヤには他の遺産には見られない 「シーギリヤ・レディー」 の壁画群があるため、今日では見逃すことのできない観光名所の一つとなっております。
Q3. シーギリヤに秘められた物語は?
シーギリヤには古くから岩山を中心として仏教僧たちの修行の場が作られていました。南北で約400メートル、高さが約180メートルに及ぶ単一の岩で形成された岩山は格好の修行場です。さらにスリランカの人々の間では昔、王族内の激しい権力争いが行われた伝説の場所としても語り継がれています。
459年〜477年、ダートゥセーナ王は都のアヌラダプーラを中心に広大な貯水池を建設するなど善政を行いました。しかしその後、長男カーシャパ (以下、兄と記す) と次男モッガラーナ (以下、弟と記す) との間で権力争奪戦が繰り広げられることになります。
平民出身の母から生まれた兄は、王族の血筋の娘として育った女性から生まれた弟に権力を奪われるのを恐れて実父であるダートセーナ王を殺害して王位を奪取したのです。弟は身の安全を図るためインドに亡命します。実父を殺害して奪った王位を、弟が血筋からの正当性を主張して奪い返しに来るのを恐れた兄はシーギリヤに都を移し、切り立った岩山の上に宮殿を建て自分の王座を護ることにします。亡命から11年後、弟はインドから軍隊を引き連れて戦いを挑みました。戦のさなかに兄の乗った象が突然前方に現れた沼に足を取られて沈んでしまったため、兄は行動の自由を奪われ軍隊は敗走。一人取り残されてしまった兄は、自ら短刀で喉をかき切って命を絶ったと伝えられています。弟は兄が建設した王宮を仏教僧に与え、都をアヌラダプーラに戻しました。その後、宮殿は熱帯のジャングルに埋もれていき、1875年にイギリスの探検家によって発見されるまで眠ることになってしまいます。
Q4. 遺跡には宮殿も残っているのですか?
シーギリヤは正しくは 「シンハギリ」 と称されシンハとはライオン、ギリは岩、合わせて 「ライオンの岩」という意味です。シーギリヤには、かつて岩山の上に建てられた宮殿を中心に色々な建物が存在していました。しかし、今では残っておりません。遺跡への入り口に立ちシンハラ民族の象徴であるライオンの爪を模した宮殿の入り口 (写真3) を入り階段を上るとあたかもライオンの喉に飲み込まれるような感じです。急な坂道を抜けると 「鏡の回廊」 と呼ばれる場所に出ます。
そこから、さらに螺旋階段を上る (右の写真4 姫野さん撮影) と有名な美女達の壁画があるところに出ます。
現存する壁画は18体ですが当初は500体程あったと言われています。女性像のうち、裸のほうが上流階級で、衣服をまとっている方が侍女です。おわかりでしたか?
険しい道を登りつめ、下を眺めると一直線の道路が城壁まで連なっており、遺跡を別の角度から一望することができます。 (写真6) 下り道では鎌首を持ち上げたような形の 「コブラの岩」、象の形の 「エレファント ロック」、「王宮跡」 等を見物することができます。
宮殿のすべては長い年月とともに姿を消しております。
まるでヨーロッパの童話 「眠れる森の美女」 のアジア版ですね。1500年以上も昔にできた神秘の史跡巡りをご案内くださりありがとうございました。
後編ではセイロン紅茶とサファイアなどの宝石採掘にまつわるお話等を聴かせていただく予定です。どうぞご期待ください。
この記事を編集するに当たって、姫野さんの撮影された写真 (写真1、2、4、6) に加え、イメージを明確にさせるため、講談社発行『世界の聖域』第9巻[セイロンの仏都]に掲載された写真 (イラスト想像図および写真3、5) を転載させて頂きました (文責 鎌田光恵)