(鈴鹿学園、感傷旅行)
次は近鉄。
近鉄の名古屋駅も同じく地下にあって、名鉄駅とは紛らわしいほどに近接している。大阪へ向けては『アーバンライナー』の愛称を冠するノンストップ特急をはじめ、各種の特急、急行が目白押しである。今は午後3時、このまま直行すれば夕刻には大阪に到達する頃合いである。だが、どうも中途半端な時刻だ。当初の見込みでは、もう少し時間にゆとりがあって、この近鉄大阪線の未乗区間を2〜3か所、途中下車しての観光的行動も考えていたのだが、それほどの余裕はない。晩秋の日暮は早い。
直行して宵の浪速でのひとときを楽しむか、それとも何処か一か所だけでも途中の町で降りてみようか、私はしばしの思案のすえ 15:11発の急行に乗った。急行は伊勢湾の岸をたどって弥富、桑名、富田、四日市、塩浜、伊勢若松、そして白子、と停車して大阪へ向かう。私は白子で途中下車した。
今を遡ること半世紀近いある年の春、この白子に所在する研修機関『鈴鹿電気通信学園』に、私は、そして紐育君も、滞在し、学んだのであった。"白砂青松、伊勢の海。紫峰翆巒、鈴鹿山 ・・・" 陳腐な学園歌が何故か今も耳に残る。それは心うずく青春の一時期であった。その思い出を暖めようと、その駅に降り立つ。センチメンタル・ジャーニィである。
しかし、現代の鈴鹿市白子町はそんな私の感傷を黙殺するかのように、乾いた喧騒をふり撒いていた。ゴチャゴチャしているが活気に満ちた駅前には通行客や買い物の人々が群をなし、駅前を我が物顔に占拠した往復3車線の国道23号は車の洪水。大都市近郊の中ぐらいの私鉄駅の何処にも見られる光景であった。あの日、学園の門から、なだらかな丘を一気に駆け降りると、そこは田園の小駅−−、その田舎じみて素朴な風景は、もう、私の思い出の中にしか存在しないのだった。
それでも私は、今はNTTに属してなお現存の『学園』を目指して国道23号のゆるい登り坂を上っていった。思い出の中の道のりは、駅から学園まで、ほんの数分に過ぎなかったので・・・。だが、急ぎ足での20分が経過しても学園の門はまだ遠かった。私は持参の地図をあらためることによって自身の記憶違いを認識し、諦めて駅に引き返した。感傷旅行は暫時お預けして、他日、紐育君と再度訪れることにしよう。
白子 17:10の大阪行きに乗った。名古屋を発って白子、津、名張、八木と続いて停車し、大阪・難波には19時少し前に着く特急である。近鉄大阪線に乗るのは初めてで、鉄道マニヤたる私の胸は踊る。が、乗るとまもなく日が暮れてしまった。暗闇の中、ノンストップに近い2時間弱はマニヤの私でも退屈である。お酒でもあれば、と思うが、期待の車内販売は姿を見せない。所在ない私は目を閉じて独り物思いに耽った。
名古屋と大阪を結ぶ鉄道路線は、この近鉄大阪線のほかにJR東海道本線、同・関西本線と、計3本ある。JR東海道本線は新幹線の圧倒的なスピードで絶対の優位を保っているかに思えるが、この近鉄も座席は概ね埋っており、なかなかの健闘ぶりである。料金の安さと高密度運行でスピードの新幹線と拮抗しているのだろう。伊勢・伊賀地方をカバーして南に大きく迂回するルートで、前身は大阪西南部に路線を張っていた『大阪軌道』と、名古屋からのお伊勢参り『参宮急行』という二つの私鉄を、戦後、紆余曲折を経て近鉄が結んだのである。
対して、名阪を最短距離で結ぶJR関西本線は振るはない。両端、名古屋と大阪のそれぞれの通勤エリヤを除けば大部分が単線・非電化のまま、本線とは名ばかりで幹線としての機能を完全に放棄している。前身は名門私鉄『関西鉄道』。明治期に時の官鉄・東海道線に料金値下げ競争を挑んだが官の威光に敗れ、国有化された後は近鉄との競争に負けて凋落の一途をたどり、今のJRに至った。これら三社・三線の葛藤の歴史は(ここでは深入りを避けるが)恰も戦国史にも似て興味津々であって、こんなことを思い起こしながらひとり感慨に浸っていたので余り退屈せずに2時間に近い車中の時間が過ぎていった。