● 「プラハの春」音楽祭
すでにご存知の方も多いと思うが、「プラハの春」
音楽祭は、スメタナの命日である5月12日に、プラハの中心部に建つ市民公会堂の中の美しいアール・ヌボー様式のスメタナ・ホールにおいて、スメタナの交響詩
『わが祖国』
全曲を演奏することによって開幕し、3週間後の6月3日ベートーヴェンの第九交響曲で幕を下ろす。その間、プラハ市内のあちこちの会場、スメタナ・ホールや、ドヴォルジャーク・ホール、モーツアルトゆかりのベルトラムカほか、教会などで連日コンサートが開かれる。チェコのこの国民的音楽祭は、プラハの春の風物詩として国内外に人気が高く、特に旅行者にとっては、期待と憧憬によって、美しい古都プラハをより一層詩情に満ちた、ノスタルジックな街として捉えることとなるらしい。
私も例外ではなく、スメタナ・ホールのオープニングで、Jiri Kout 指揮、プラハ交響楽団演奏による 『わが祖国』 を聴いたときは、今までに経験したことのない何か不思議な感動を覚えた。演奏が終わったあと、聴衆が総立ち (スタンディング・オベイション)
で送る拍手の波がいつまでも続き、それを聴いていると、一種もの物悲しいような、会場を立ち去りがたいような、甘美な孤独とでも表現すべき気持におそわれた。それが、優れた音響効果のせいだったのか、名指揮者と楽団員のレベルの高さのせいだったのか、あるいは、スメタナを心から愛する聴衆の並外れた熱狂のせいだったのか、私にはよくわからなかったが。
スメタナの生涯
多くの天才音楽家がそうであるように、スメタナの楽才も、幼少のころから際立っていたという。ビールを醸造する家に生まれながら、5歳で弦楽四重奏に加わり、6歳でピアノ奏者として初舞台を経験、8歳で既に舞曲を作曲している。生まれ故郷リトミシュルのスメタナの生家(現在、博物館になっている)には、彼が5,6歳のころ弾いたという小さなピアノが展示されている。この地には、少し気取った感じの スメタナ像も立っているが、その視線をたどると、彼が16歳のときに恋した女性が住んでいたという家が現在も残っている。スメタナ像を建立するに当たって、こういう位置関係に配慮するというのが、実はチェコ人のユーモアと愛情のように私には思える。フェルナンデスの著書に
「ユーモアはチェコ人の秘密兵器である」 と書かれている。また 「チェコ
の民族史の推移は、つねに挫折と屈辱であり、笑いに紛らす以外、それに耐えることができなかったのだ」
とも。スメタナも、20代のころ、チェコの国民開放運動に参加し、学生義勇軍のために 『行進曲』 や 『荘厳序曲』
を書き、40代では、チェコ民族復興運動の中心的役割を担っている。彼は、生涯に3回結婚していて、数人の子供を授かっているが、晩年は聴力を失い、やがて視力も衰え、妻にも去られ、1884年5月12日、精神錯乱のうちに60歳の生涯を閉じている。今年は、スメタナ没後120年に当たる。