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スメタナの祖国、チェコを旅して

2004年6月25日 大谷

● 旅へのいざない
旅に対する想いは人それぞれであるに違いない。私自身についていえば、そのイメージは、遠いむかし、小学生のころ歌った 「海は広いな 大きいな/月が昇るし 日が沈む/海におふねを浮かばせて/行ってみたいな よその国」という童謡や、中学生のころ出逢った萩原朔太郎の詩、「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し せめては新しき背広をきて 気ままなる旅にいでてみん」という 『旅上』 の一節、また、高校生のころ読んだボードレールの 『旅への誘い』 などの影響のもとに、少しずつ醸成されていったように思う。したがって、私は旅行に出掛けるとき、どちらかというと国内よりも海外を選んでしまう。また、海外でも、気付いてみると、殆どヨーロッパの古都を歩いていることが多い。
今回も、何気なく手にした旅行パンフレットの “「プラハの春」音楽祭を鑑賞するチェコへの旅” というフレーズに魅かれ、スメタナの祖国であるチェコへ出掛けることとなった。

● 「プラハの春」音楽祭
すでにご存知の方も多いと思うが、「プラハの春」 音楽祭は、スメタナの命日である5月12日に、プラハの中心部に建つ市民公会堂の中の美しいアール・ヌボー様式のスメタナ・ホールにおいて、スメタナの交響詩 『わが祖国』 全曲を演奏することによって開幕し、3週間後の6月3日ベートーヴェンの第九交響曲で幕を下ろす。その間、プラハ市内のあちこちの会場、スメタナ・ホールや、ドヴォルジャーク・ホール、モーツアルトゆかりのベルトラムカほか、教会などで連日コンサートが開かれる。チェコのこの国民的音楽祭は、プラハの春の風物詩として国内外に人気が高く、特に旅行者にとっては、期待と憧憬によって、美しい古都プラハをより一層詩情に満ちた、ノスタルジックな街として捉えることとなるらしい。
私も例外ではなく、スメタナ・ホールのオープニングで、Jiri Kout 指揮、プラハ交響楽団演奏による 『わが祖国』 を聴いたときは、今までに経験したことのない何か不思議な感動を覚えた。演奏が終わったあと、聴衆が総立ち (スタンディング・オベイション) で送る拍手の波がいつまでも続き、それを聴いていると、一種もの物悲しいような、会場を立ち去りがたいような、甘美な孤独とでも表現すべき気持におそわれた。それが、優れた音響効果のせいだったのか、名指揮者と楽団員のレベルの高さのせいだったのか、あるいは、スメタナを心から愛する聴衆の並外れた熱狂のせいだったのか、私にはよくわからなかったが。

故郷リトミシュルに立つ
スメタナ像

スメタナの生涯
多くの天才音楽家がそうであるように、スメタナの楽才も、幼少のころから際立っていたという。ビールを醸造する家に生まれながら、5歳で弦楽四重奏に加わり、6歳でピアノ奏者として初舞台を経験、8歳で既に舞曲を作曲している。生まれ故郷リトミシュルのスメタナの生家(現在、博物館になっている)には、彼が5,6歳のころ弾いたという小さなピアノが展示されている。この地には、少し気取った感じの スメタナ像も立っているが、その視線をたどると、彼が16歳のときに恋した女性が住んでいたという家が現在も残っている。スメタナ像を建立するに当たって、こういう位置関係に配慮するというのが、実はチェコ人のユーモアと愛情のように私には思える。フェルナンデスの著書に 「ユーモアはチェコ人の秘密兵器である」 と書かれている。また 「チェコ の民族史の推移は、つねに挫折と屈辱であり、笑いに紛らす以外、それに耐えることができなかったのだ」 とも。スメタナも、20代のころ、チェコの国民開放運動に参加し、学生義勇軍のために 『行進曲』 や 『荘厳序曲』 を書き、40代では、チェコ民族復興運動の中心的役割を担っている。彼は、生涯に3回結婚していて、数人の子供を授かっているが、晩年は聴力を失い、やがて視力も衰え、妻にも去られ、1884年5月12日、精神錯乱のうちに60歳の生涯を閉じている。今年は、スメタナ没後120年に当たる。

その2に続く


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