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スメタナの祖国、チェコを旅して その2

2004年6月25日 大谷 恭子

● スメタナの 『わが祖国』
「この川は、二つの水源から流れ出す」という、誰もがよく知っている 『わが祖国』 第2曲<モルダウ>の楽譜の添え書き。第1の水源はフルートにより、第2の水源はクラリネットで...私が初めて<モルダウ>を聴いたのは、確か中学の音楽室で、レコード鑑賞の授業でだった。そのとき、陽光を浴びたり、月光に輝いたりしながら、川幅を広げ、とうとうと流れてゆくモルダウ川を想像し、何と気持ちのよい曲なのだろうと感じたことを覚えている。
スメタナの 『わが祖国』 全6曲は、彼の病状が悪化し始めた50歳から書き始められ、完成までに5年を要している。第6曲目<ブラニーク>を完成した時には、彼の耳は既に全く聴こえなくなっていたという。このようなスメタナの生涯に想いを馳せながら、モルダウ河畔を散策していると、スメタナ・ホールで聴いたあの感動的な<モルダウ>の旋律がよみがえり、一方、何か胸が痛くなるような気がしなくもなかった。人は皆いつかは死ぬのであって、その人の生涯が幸せであったか、不幸であったかなど、誰も知ることはできないのだと。しかし、チェコ人のみならず、世界中の人々から絶賛される、あの素晴しい作品を後世に残したスメタナは、やはり偉大であり幸せな人だったのではないだろうか。

カレル橋の
ヤン・ネポムツキー像

● モルダウ川にかかるカレル橋
旅行者をプラハに惹きつける景観の一つに、夕日に映えるゴシック様式のカレル橋がある。その欄干には、左右15体ずつ合計30体の聖人像が立っている。この聖人像の中で最も有名で、いつも大勢の人が群がっているのが、聖ヤン・ネポムツキーのブロンズ像である。この台座に手を触れ、願いごとをすると叶うといわれる。ただし、その願いごとを他人に漏らすと、即、効力が消えてしまうのだとか。因みに、2003年8月、チェコを訪れた小泉総理も、「しばし、この台座に手を触れておられました」と、ガイドから聞いた。ヤン・ネポムツキーとは、14世紀の高僧で、ヴァーツラフ4世から、王妃の告戒の内容を聞かれ、それを拒否したために、拷問にかけられ、モルダウ川に投げ込まれたという人物である。この伝説には、諸説あるらしいが旅の途上、自分の願いごとを、人知れず唱えてみるというのも、夢があっていいように思う。

● プラハを離れる前日の夜
今回の旅行では、プラハのほかに、スロヴァキアの首都ブラチスラヴァや、ブルノ、スメタナの生まれ故郷リトミシュル、テルチ、チェスキークルムロフなどを廻ったが、私が、最も心魅かれた街は、やはりプラハだった。プラハを離れる前日の夜、旅の余韻を楽しむために同行の姉を誘い、ホテルのバーに下りていった。「プラハらしいカクテルって何かしら」と姉に聞くと、「ここには、シャーリー・テンプルというカクテルがあるって、読んだことがある」というので、早速、それをオーダーしてみた。すぐにタンブラーに入った美しい色のカクテルが出てきたが、味のほうは、カンパリソーダーとレモネードをミックスしたような、物足りないものだった。

アメリカの子役スターとして有名なシャーリー・テンプルは、映画界引退後は、政治家、外交官としても活躍し1990年代初めに、ブッシュ前大統領からチェコスロバキアの大使に任命されている。プラハでは、彼女の業績を讃えて、彼女の名をカクテルの名に残しているのだそうだ。こういうこともチェコらしいといえるのだろうか。

帰国して1ヶ月余り経つが、いまも私の中では、時々<モルダウ>の旋律が鳴り響く。正直にいうと、出発前に、私はスメタナに関してあまり知らなかった。『わが祖国』についても、レコードは持っていながら、全曲を通して聴いた回数は少なく、よく知っている曲といえば、<モルダウ>と<弦楽四重奏曲第1番ホ短調>くらいだった。それが、今ではすっかりスメタナファンになっている。チェコの人々のスメタナに対する思い入れには想像以上のものあり、ドヴォルジャークもヤナーチェクも、スメタナの人気には遠く及ばないように感じられた。


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