KDDでバイトしたことで 人生の転機 (生まれた東京に) -- その1
戦時中の疎開によって、東京から父の郷里山口県に移り住むことになった私は、五才の時から岩国市二鹿で暮らし、二鹿小学校、北河内中学校を経て高水高校に入学した。昭和三十二年、岩国校舎の第一期生として卒業した後、岩国市役所の臨時職員となり、杭名小学校の事務の仕事をしながら岩国国際洋裁学院の夜間部に通学していた。市役所のバレーボール部の一員として県内各地の試合に出かけるのも楽しく、洋裁学校の勉強にも励んで、それなりに充実した二年間を過ごした。しかし、岩国は私にはどうしても好きになれない気持ち、世間が狭い感じで何か自分でやってみたいことはなかなか見つからない。私の生まれた東京に行ってみようと、昭和三十四年二十才の四月上京。
ところが、目的をこれと決めていた訳ではなく、何をしてよいか分からず二ヶ月が過ぎ去った。親から貰ったお金も無くなってきた。小父の家に居候していたので一日中家に居てもつまらない。何か仕事を探そうと思っていた時、KDD(国際電信電話株式会社)という会社に勤めていた従兄が、KDDで二ヶ月間の学生アルバイトを募集していると知らせてくれたので、応募したら採用となり、早速KDDで働くこととなった。
KDDという会社がどんな仕事をしているか、よく聞いていなかったので、先ず驚いたこと、アルバイトをする場所は、広いスペースにタイプライターが何十台と設置されている。それに座っている男性の両手はジャズピアノを弾くような速いスピードでタイプライターを叩いている。回りにある用紙は全部横文字、日本語は見当たらない。すべて英語であった。さらに驚いたことは、受話器を持って話している言葉も英語その他の外国語で話している。日本語はこの職場では私語だけのように聞こえる。白髪のおじさんも外人とペラペラ英語を話している。