ネットインタビュー (19)

ドリス・レッシング (2007年ノーベル文学賞受賞作家) の魅力について
英米文学者  大社 淑子 オオコソ ヨシコ さんにきく
大社 淑子さん

Q1 ドリス・レッシングの作品を何冊か翻訳されていますが、どんな作家なのですか
・ ドリス・レッシングの生い立ち

ドリス・レッシングは、1919年にペルシァ(現イラン)のケルマンシャー で生まれました。その後、銀行勤めをしていた父親が職を辞して南ローデシア(現ジンバブエ)に入植する決意をしたため、1925年から1949年まで、つまりいちばん感受性の強い5歳から30歳までをアフリカで過ごすことになります。その父親は、28歳の時に第一次大戦に出征し、砲弾が当たって片足を切断するという悲劇的な運命に見舞われました。その時、看護婦として彼の世話をしたのが、後にレッシングの母親となった女性でした。

・ 母親との深い確執?

 幼いときからレッシングは父親に対しては強い愛情を感じていたものの、「男の子がほしかったのに女の子が生まれて…」という母親の述懐を聞いて、母が愛しているのは弟の方で自分ではないという強い疎外感を抱くようになり、高圧的な母に対して生涯はげしい反抗心と憎しみを抱いていたといいます。彼女は観察力が鋭く、世の中のいろいろな事柄に対して批判的、闘争的でしたが、一面、愛に飢えた子供でもあったようです。父親のアルフレッドは理想家肌のヒューマニスティックな人間で、パーティ嫌いのおだやかな人柄だったようですが、母親エミリーのほうは逆に社交的な女性で、学校の成績はよく、何をやらせてもうまく処理する有能さを備え、芝居や音楽が好きで劇場や音楽の夕べなどによく出かけていたとのことです。しかし、階級や社会的地位によって人間を判断するスノッブだった、とレッシングは書いています。

・ 結婚生活と作家としての出発

Doris Lessing (copyright Fay Godwin)
大社淑子さん提供
 レッシングはやがて南ローデシアの大都会ソールズベリの修道院付属の女学校に入れられますが、14歳のとき眼病にかかって家に帰ったのを機に中退してしまいます。以後学校へは行かず、幅広い読書で知識を身につけ、思考力を養ったようです。その後、親元を離れて自活を始め、1939年に10歳年上の公務員フランク・ウィズダムと知りあって結婚しました。まもなく男の子が生まれ、翌年には女の子が誕生しますが、その頃からコミュニストのグループに近づき、保守的な夫とは意見が合わなくなり、他の男性に恋をしていたこともあって、このままだと神経が持たないからと、夫と子供を捨てて1943年に家を出てしまいます。まもなくローデシア共産党の中心的人物だったドイツ人の亡命者ゴットフリート・レッシングと1945年に結婚しますが、この結婚も4年後には破綻してしまいました。
 そういう経緯を経て、レッシングは、ゴットフリートとの間にできた息子ピーターを連れ、南ローデシアで書いた中編小説『草は歌っている』の原稿をたずさえて 1949年イギリスに帰ってきます。この小説が採用されて出版されると、幸運なことに5か月間に7版を重ねるという大成功を納め、彼女は新進作家としての地位を確立しました。その後は精力的に作品を発表しつづけ、現在までに60冊を越える著書を刊行しています。

Q2 レッシングが女性作家の中でも傑出している理由は?
・ レッシング文学の三本の柱

  レッシング文学の三本柱はマルキシズム、反レイシズム、フェミニズムだとよく言われますが、いずれも強いヒューマニズムから発しています。彼女が最初にこの世界の不当性に目覚めたのは、南ローデシアで白人と現地人の扱い方が大きく違うのに気がつき、義憤を感じたからです。どうして現地人は白人の給料の十分の一ないし二十分の一しかもらえないのか、どうして現地人はこんなに差別されなければならないのか、といった問題です。しかし、このような問題を話し合おうとしても相手にしてくれるのはマルキシストだけという状況で、レッシングはしだいに共産党の人々に近づいていきます。また、白人と現地人の扱い方の違いは男女の扱い方の違いにも通じますので、作品のなかで女性の自由と自立の問題を追求するうちにフェミニストの旗手と目されるようになったようです。

・ 社会の矛盾を執筆活動で究明

写真は Walking in th Shade の表紙
(大社淑子さん提供)
 レッシングは、幼いときから人間はすべて平等でなければならない、基本的に自由で主体性を持たねばならない、幸福で文化的な生活をする権利がある、といったようなことを考えていた人でした。周囲の世界の有様や政治の状況を鋭く分析し、社会の在り方、階級制度、人間関係、人間の本質などを透徹した洞察力で観察し、それらを文学という芸術の形に形象化したことが彼女の文学の大きな特徴となっています。彼女はまたSF小説を沢山書いていますが、これらの作品も、単なる冒険小説やファンタジーではなく、現実にしっかり根をおろした社会性の強い文学です。また、核廃絶運動や人権問題に積極的に取り組むなど、実生活の上での活躍も見落とすことはできません。その意味では、レッシングは世界の良心、文明の批評家と言えると思います。

・ 多作のレッシングがこれまで世にだした著作のうちの推奨作品は?

 代表的な作品としては、アフリカの厳しい現実をスリラー小説仕立てで描いた第1作 『草は歌っている』、ある女性作家の精神の崩壊とその立ち直りを描いた『金色のノート』、現在世界の有様を親星をめぐる惑星群の形で描いた大宇宙小説の連作第1巻の『シカスタ』などを挙げることができるでしょう。先年上演されたフランス映画『夕映えの道』の原作となった『ジェイン・ソマーズの日記』も老年問題を描いた佳作ですし、大部の『ラヴ・アゲイン』は老年に差しかかった魅力的な女性の性と愛を描いた感動的な名作です。

Q3 つぎに大社先生とレッシングとの出会いについてお伺いします。
・ KDD時代からレッシングの作品をお読みだったとか?

作家との出会いということが作品との出会いという意味でしたら、私は KDDに勤務していた頃からレッシングの作品を時折読んでいました。実際に会ったのは、1981年6月、早稲田大学の専任教員になった後、1年間の在外研究の機会を得たときです。ちょうど彼女の作品を翻訳していたときでもあり、出版社経由で、お会いできないかと問い合わせの手紙を書いたところ、たいへん親切なことに彼女は私の滞在先に電話をかけてきてくれました。それで、地図を頼りにハムステッドの彼女の家に会いに行きました。そこは白塗りの細長い3階建てのアパートで、最上階の窓からは赤いバラが植えられた庭が見え、その先に緑の森が、その彼方にロンドンのスカイラインが見える、とても清潔で明るくさわやかな住居でした。そこに当時62歳になる世界的に有名な女性作家が猫と住んでいて、ケイプ・プロヴァンス地方産の香りのよいアフリカ紅茶をご馳走してくれました。
 実を言うと、彼女の作品の裏表紙に載った写真などから どことなく いかつい感じの、がっしりした女性を想像していましたが、現実のレッシングさんは茶色のワンピースの上に白いセーターをさりげなく羽織った、私より小柄な、手も足も細い、繊細な感じのする美しい女性でした。このときのインタヴューは必ずしも成功したとは言えませんが、彼女がSF小説の無限の可能性について熱心に語っていたことが大変印象的でした。それ以来、25年間彼女は毎年クリスマスカードを送り続けてくれました。ただ昨年はノーベル賞を受賞して超多忙のせいでしょうか、カードは来ませんでした。

Q4 大社先生は、もう一人のノーベル文学賞受賞(1993年)作家、トニ・モリスンの翻訳も多く手がけていらっしゃいますが …

 米国の黒人女性作家トニ・モリスンについてはあまりにも話すことが多すぎて、ここでかいつまんでお答えすることはできません。詳しくはまたの機会にお願いしたいと思いますが、少しだけお話ししますと、私がモリスンの第1作と第2作を翻訳したとき、彼女は日本では全く無名でした。アメリカでは第3作『ソロモンの歌』が全米批評家サークル賞を受賞し、「今月の本」クラブの推薦図書にも選ばれて、ようやく名前が知られるようになってきたところでした。しかし、当時私は、彼女がのちにノーベル文学賞を受賞するとは夢にも思いませんでした。

Q5 ある本を翻訳する場合、翻訳者を決めるのは誰ですか?

Doris Lessing at lit.Cologne 2006
(http://en.wikipedia.org/wiki/
Doris_Lessing,12:3328/06/’08)
 ふつうは出版社が出版したい本の版権を取り、その作品を専門に研究している人に翻訳を依頼するという形で作業が進んでいるようです。そのほか、誰かが この本は良いから出版したいと思い、出版社に持ちこむこともあります。その場合は出版社側で検討し、社の意向に添ったもので、出版計画のなかにうまく組みこむことができれば、出版の運びになるようです。いい作品でも、出版社の性格に合わないもの、あまり売れそうにないものは採用してもらえないということになります。その他、自費出版という方法もありますので、一概には言えません。(3ページDoris Lessingの写真キャプションについて大社先生にお訊ねしたところ「2006年3月12日、ドイツのケルンで開催された文学フェスティヴァルで撮影された写真」であることをおしらべ下さいました)

Q6 翻訳の楽しさと苦しさは?

 私はどういうわけか、原文を読んでいると、自然に日本語の文体が浮かんでくるのです。うっかり誤訳してしまったこともありますし、語学力が足りないという問題もありますが、それでも、あまり苦労して翻訳をしたことはありません。もともと翻訳が好きですから これまで何冊も翻訳してきたわけで、苦しければ最初から翻訳はしなかったでしょう。出版社から依頼されても、内容と時間的余裕の関係でできそうもないものは、お引き受けしなかったこともあります。ただ、最初はゆったりしたペースでできそうだと思っても、いろいろな用事が次々に出てきて翻訳する時間が取れず、締め切りとの関係でだんだん時間的に厳しくなり徹夜に近い作業を強いられることもたびたびありますが、基本的には好きなことをしているわけですから、苦しいと思ったことはありませんね。
 困った経験はと言えば、ある歴史書を翻訳していたとき、日本語では伯父叔母、兄弟姉妹というように年上か年下かの区別をしますが、英語ではそれをしませんので、18世紀に実在した人物が、ある人物の伯父なのか叔父なのか、兄なのか弟なのかがわからず、それを調べるのに苦労したことがありました。原作者はもう亡くなっていましたので問い合わせることもできず、十数人の家族関係を調査して特定するためにまる1ヵ月を費やしたことがあります。それでも何人かは確かめることができず、感じで訳してしまいましたが、間違っていたかもしれません。とくに、間違っているという指摘は受けないまま、絶版になってしまいましたけれど。 全体的に考えれば、私にとって翻訳とは楽しい仕事だと言えます。
 本日は国際色豊かで格調高い内容をわかりやすく話して下さいまして、ありがとうございました。(聞き手:鎌田光恵)

大社 淑子さんの略歴

1931年福岡県に生まれる。1953年〜1969年、KDD国際電話局に勤務。現在、早稲田大学名誉教授。
専攻: 英米近代文学、比較文学。
著書:「トニ・モリスン―創造と解放の文学」(平凡杜、1996) 、
「アイヴィ・コンプトン=バーネットの世界 −権力と悪」 (ミネルヴァ書房、2005) 他。
訳書:タックマン 「愚行の世界史」「最初の礼砲」 (朝日新聞杜、1987、1991)、ハイルブラン 「女の書く自伝」(みすず書房、1992) 、
サートン 「ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く」 (みすず書房、1993)、モリスン 「白さと想像力」 (朝日新聞杜、1994) 、
モリスン 「青い眼がほしい」、「ジャズ」 「スーラ」 「パラダイス」 「ラヴ」 (早川書房、1994、1994、1995、1999、2005) 他多数。
 なお、ご存じの方も多いと思いますが、k-unet 世話人の大谷恭子さんは、先生の妹さんです。
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