ネットインタビュー (17)

識名 朝清 さん
---- 米軍統治と公社事業 -- 内側から見た戦後沖縄の電信電話 ----
元国際電信電話 (株) 沖縄国際通信事務所長の 識名朝清 (しきな ともきよ) さんは2006年 「米軍統治と公社事業 --- 内側から見た戦後沖縄の電信電話」 と題する本を出版されました。いわゆる自分史ではなく、後々のための必要な記録として執筆されたとのことです。
識名 さんは、1959年琉球電信電話公社の設立時から1972年日本電信電話公社と国際電信電話株式会社への引き継ぎまで経営者の一人として沖縄における国際通信業務に携わってこられた経緯を一冊の本にまとめられたのです。
今回は 識名朝清 さんにご登場をお願いし執筆された内容に基づいてお話しを伺うことにしました。

Q1. 執筆の直接の動機は?

「今、活字にしておかなければ私たちの努力は歴史に埋もれてしまう。」 という危機感からです。 1952年、日米講和条約の締結後、アメリカ合衆国は琉球列島における占領行政を間接統治に切り替え同年4月1日、自治政府としての琉球政府を発足させました。
これを機に国際通信業務についても「琉球政府が行うべきである」との決定を下し、それまでRCA通信会社に与えていた免許を取り消し琉球政府に与えることにしました。
業務は琉球国際電気通信局 (Ryukyus International Telecommunication Service 略して RITS) の主管としてスタートし
7年後に琉球電信電話公社 (以下、琉球電電と呼ぶ) へ引き継がれました。琉球電電は1972年の本土復帰に伴い日本電信電話公社 (以下、日本電電と呼ぶ) に吸収合併されました。その日本電電も分割民営化されNTTグループとなりました。沖縄県は電信電話事業を引き継いでいないため県史では付言しておらず、また日本電電も合併前の琉球電電の実情に暗い。そこが歴史の盲点となっていることに気付き執筆を思い立ったわけです。在職中、日々の業務内容を詳細に記録しておいたので半年足らずで本書を編み上げることができました。

Q2. RCA通信会社への運営委託というかたちで始まった国際通信

戦前沖縄では国際通信の経験がほとんどありませんでした。移民のいるアルゼンチンへ年に1〜2度国際電報を送った程度でその時は、複雑な語数計算に戸惑い、さらに料金は金フラン建てになっており、これを公報に掲示された換算率によって円に換算し徴収するというややこしい仕組みに奮闘したのみでした。戦後の沖縄における国際通信はいちはやく沖縄に進出し軍免許を獲得したRCAが米軍人軍属相手に独占的におこなっていました。
1952年日米講話条約が締結され、琉球列島米国民政府 (以下、民政府と呼ぶ) は先に述べた 「国際通信業務は琉球政府が行うべきである」 との決定をしましたけれど経過措置としてRCAにも配慮し、施設は琉球政府を所有権保持者に、管理運営権はRCAに委託するという形で決着を図ったのです。RCAと琉球政府との契約は2年半の期限で結ばれました。その間にRCAは琉球人を指導援助し運営管理を引き継ぐための備えをすることになっておりました。それからが大変でした。技術系職員と業務系職員を選び本土の電気通信省での訓練を終了しRCAに派遣したのですがRCAは業務系職員について不適格と拒否したのです。琉球政府の機構改革等による局内の繁忙に紛れ、この件は放置され、引き続いての訓練も検討されませんでした。そして、RCA側の権益への執着も強く働いたようで、2年半が経過しても、琉球側への業務移管は結実しませんでした。一日でも早く琉球人の手に国際通信をという焦りは募りましたが、「業務移管は時期的に無理」 との民政府判断を受けRCAとの委託契約は1957年まで延長を繰り返されることになりました。

Q3. 琉球電電の発足

戦後の復興が進む中で、「電話はつながらないもの」 という新しい事態が発生しました。
電話の需要が増加する中で琉球政府の貧弱な財政状態では供給が追いつかなかったのです。
一方、琉球政府はRCAからの国際通信業務引き継ぎを速やかに実現するため機能を敏速に発揮できる形態として新しく公共企業体 (公社組織) を設立する案をつくり民政府に打診しました。民政府は非常な関心を示し「なかなか良い考えである。国際だけでなく国内業務を含めた公社組織案をつくり提出せよ」との指示を下してきました。
1959年5月1日琉球電電が設立され業務を開始しました。1960年7月1日琉球電電の外局として国際電気通信局がスタートしました。ここに長年の念願であった、琉球人の手による国際通信業務の自主運営が実現したわけです。業務量は年を追って増加し、その収益は草創期の琉球電電財務に大きく貢献しました。

Q4. 高等弁務官キャラウエイ中将

電信電話債券の発行も始めのうちは順調でした。 しかし、債権発行の引受銀行である琉球銀行はアメリカの布令でつくられた銀行で株式の51%を軍が握っていたために、売れ残り債権を琉球銀行がストックしている状態にクレームがついたわけです。『琉球電電の建物や設備を抵当に差し出し、不都合が生じたならば、他の民間企業に通信事業を肩代わりさせる。法律でそれが許されないならば新しい法律をつくりなさい』という無茶苦茶をいってきたわけです。まったく、「朕は法律なり」の思想です。これは当時高等弁務官であったキャラウエイ中将のやりかたです。
こういう話もあります。本土と沖縄を結ぶスキャッター通信によるマイクロ波回線 (日琉マイクロ回線) が復帰にそなえて、また、東京オリンピックに間に合うようにと建設が急ピッチで進められておりました。完成した日琉マイクロ回線は当時の佐藤総理の特別な計らいで琉球住民にプレゼントされました。施設はプレゼントされましたが、業務協定の中で料金収入の分配をどうするかの問題が出てきました。日本電電は65:35を主張し、琉球電電は50:50の折半を主張しました。このことは非常に誤解された面もありますが、琉球電電にとっては経営の根幹に関わる大問題だったのです。日本電電との交渉は難航し、琉球電電が譲歩せざるを得ないところまで追いつめられました。ところが、キャラウエイ高等弁務官は50:50を主張し絶対に譲りませんでした。日米間をギクシャクさせたくないという背景やオリンピックに間に合わせたいとの思惑も働いて両電電の話し合いの結果50:50で決着しました。その後、琉球電電の経営が非常にうまくいったのもこの折半分配が大きく物をいいました。
これはキャラウエイ中将に絡む事項としては琉球電電にプラスになったことですが彼の人物評価ほど難しいものはありません。彼が 「自治は神話である」 と自治神話論を吐いたり、経済界の粛正をやろうとしたり、各方面で波乱を巻き起こしたことは有名です。当然ながら内外から激しい非難がおこり1964年8月キャラウエイ中将は更迭されました。

Q5.「米軍通話は無料でよい」? 一度掌中に収めた権益は離さない!という厚い壁

1953年 公衆電気通信法が制定され、それにより利用料金を徴収するように定められていましたが米軍は支払いを拒否していたのです。その支払い交渉は一筋縄では行きませんでした。米軍側は占領意識、主権者意識があって琉球政府の法律は守らなくてよいとの考えが根底にあったのではないかと思われます。協議の度に、軍側の代表者は 「私は知らない」「私はその権限をもたない」 とまるで暖簾に腕押し状態が続きました。私は戦後、復員し、米軍に勤めた経験がありますが、米国人は議論する際、感情を交えた話を嫌い、理にかなった意見は理解してもらえました。その経験を生かし、臆せず堂々と主張することで相手の信頼を得るべく努力を重ねました。根気強く文書で確認し話し合うことを続ける内に少しずつ進展がみられ始めた1969年 「沖縄は両三年間に日本へ復帰する」 ことが日米共同声明で打ち出されました。沖縄での軍通話料、保守工事問題などのすべては日本電電が日米通信合同委員会で正式な外交ルートにより行う交渉の席に委ねることになったのです。1971年5月政府レベルで協定を結ぶ舞台である電気通信小委員会で最終的な承認が得られることになりました。
米軍の通信系と公衆通信系との接続形態を民間のPBXと同様の形態と見なした日本電電方式と琉球電電の考え方に大差はありませんでした。

Q6. 琉球政府時代、経済・文化面で果たした国際通信の役割

琉球電電は対外短波回線をアメリカの他にマニラ、香港、台北との間に所有しておりましたが需要の増大に施設が追いつかない状態でした。そこで新たに可能になった通信衛星による通信を活用した日琉マイクロ回線・通信衛星経由の日米間通話の話が持ち上がりました。1968年3月NTT、KDD、AT&Tの協力によりこれが実現したのです。琉球電電は復帰一年前に全短波回線を廃止し東京経由に一本化し復帰に備えることができたわけです。琉球も諸外国に並び近代通信手段を享受することになりました。
琉球政府時代、経済・文化面で果たした国際通信の役割は実に大きなものだったと思います。

Q7. 戦後27年経過して沖縄の本土復帰が可能になったのですが

長い道のりでしたね
1972年5月15日に沖縄が本土に復帰し琉球電電の国際部門はKDDへ、国内部門はNTTへ引き継がれることになりました。本土復帰は沖縄にとっては世代わりということで大変なできごとでした。後でいろいろと問題もでてきましたがその当時は新しい事態に対応するのに一生懸命だったので淡々と過ごしたというのが実感です。
ありがとうございました。

左は筆者 識名朝清 さん
1920年 那覇市首里に生まれる
1939年 熊本逓信講習所高等科卒業
1943年 応召、1946年 復員
1951年 那覇中央電信局電信課長
1959年 琉球電電総務課長
1972年 KDD那覇国際通信事務所長
1980年 KDD定年退職

1956年3月 琉球銀行に始めての
テレタイプ専用回線が実現
外国銀行とのLC電報送受

KDD2代目町田社長が来沖された時
(1959〜60?)
オーストラリア訪問の途次
同行は当時の秘書役佐々木和夫さん

編集後記
『人間社会に於ける風俗習慣に歴史があるように、人間が創り出した 「制度」 にも歴史があります。ただ、風俗や習慣は生活の知恵と風土が産んだもので、自然に推移してゆくものです。しかし、制度はその必要性に即応するための合理的な工夫と約束事が要求されます。更に時代的な影響を受けます。私は、文化、諸制度の改廃などは文明的現象だと理解しております。文明には、ある意味において、思惑が交錯し、その統一が前進につながります。それゆえの波乱を避けることはできません。戦後沖縄における国際通信事業にその例を見る思いがします。』 これは著者の長年の友である船越義彰さん (去る3月5日肺炎のため逝去) がこの本のはじめに 「発刊に寄せて」 書かれた一部です。文筆家として著名な船越さんのユニークな洞察に頭を下げます。
私が国際電話交換手としてKDDに入社した当時 (1963年) 、大手町ビル4階の国際電話交換室には窓側のオークランド8席の近くにナハ2席があり、毎日 「ハロー・ナハ」 と英語で仕事をしていた記憶があります。識名 さんのお話しで1968年に終了したことがわかりました。
今回 識名 さんとのインタビューでは米軍統治下における沖縄の国際電話事業に焦点をあててお話ししていただきました。執筆された本では国際電報料金や、米軍基地を結ぶネットワークの問題や、琉球電電の特色など多岐にわたって書かれております。興味を持たれた方は是非この本を手にとってお読みいただきたいと思います。ありがとうございました。
(鎌田光恵)