◆前編では、わが国の国際電気通信の先駆けになった、長崎−ウラジオストク(浦塩)間海底電信ケーブルゆかりの地・浦塩を訪ね、その印象などを紹介した。後編では、このケーブルの発祥の由来等に遡ってみたいと思う。
長崎−浦塩ケーブルの計画が持ち上がったのは、まさに幕末の変革期。昨年人気を博したNHK大河ドラマ「篤姫」の舞台に重なる。いわゆる黒船来航に揺れた嘉永6(1853)年、篤姫は薩摩藩から徳川13代将軍・家定に輿入れしている。その翌1854年には、幕府大老・井伊直弼が勅許を待たずに「日米和親条約」の締結に踏切り、開国派・攘夷派の対立、いわゆる安政の大獄・王政復古などの騒然たる内紛。江戸城大奥にあって不穏な情勢を知る篤姫は、将軍と本音で語らい幕閣とも接触し、幕府中枢から政情にタッチした。つまり篤姫は、将軍の正室と云う地位を生かして天性の判断力と進取的な決断力により、国の平和的開国を念じ”女の道は一本道”を演じた幕末維新の立役者の一人として描かれている。
◆黒船騒動のころ、帝政ロシアもシベリアからの南進を試み日本に開港を迫っていた。米国より一年の遅れで、安政2年(1855年)に「日露和親条約」が締結され1858年には函館にロシア領事が置かれている。因みに、この時の和親条約が今日の北方領土問題において日本が主張する国境線の根拠になっていることは、周知のとおり。
そして、この函館領事から幕末も迫る慶応3(1867)年7月に突如「海底電線の日本陸揚げ」について申し入れがきた。まさにロシアが極東電信ルートの開拓に先手を打ったものである。しかし、混乱期の幕府には、電信機などの文明の利器を社会インフラに採り入れる余裕はなかった。因みに当時の情報連絡手段と言えば、わが国では未だ飛脚・早馬の時代。一方欧米では、既にモールス電信が発明され、電信網が主要都市を結び、更に海底電信ケーブルの開発により大洋を隔てた国際通信も展開されていた。ケーブル網は、列強による植民地開拓の舞台においても重要な役割を果たしていたと云う情勢である。
さて、慶応4年の江戸無血開城により、明治政権が成立(明治元年)し、翌年には函館五稜郭の戦いも終結、維新の混乱は漸く収束に向かった。薩長志士等の先覚・気鋭を鳩合した明治新政府は、急速に西欧先進文化の吸収を図り、明治2年末には、わが国最初の電信事業が東京−横浜間に開始されている。
◆このような維新革命の情勢を見届けたように明治3(1870)年4月、函館のロシア領事から再度「海底線の陸揚げ」について申し入れがきた。明治政府は早速交渉に取り組み、浦塩−長崎電信ケーブルが具体化している。もっとも、この交渉相手はロシアではなく、デンマーク政府の特使とケーブルの建設・運用を担当する大北電信会社(GNTC)の代表であった。つまりロシアは、GNTCに免許状を与えて浦塩における海底ケーブルの建設・運用、およびシベリア電信線路との接続を認め、GNTCをしてアジア各地への電信網の拡張を支援していたと云うわけ。当時の日本側の担当は、主に外務大輔の寺島宗則があたり「GNTCに対する伝信機陸揚げ免許約定」と称する日本・デンマーク間協定を取り纏めている。そして、早くも翌明治4年(1871年)末にはケーブルの敷設を見た。交渉から僅かに一年半ほどの驚異的速さの開通であった。その背景として、実はロシアとGNTC側では日本との交渉開始に合わせ手回し良く準備を進めていたことが窺える。
◆GNTCの極東進出状況を見ると、既に日本との陸揚げ交渉開始前の1870年1月には、清国の共同租界地であった上海に子会社(GNTC China & Japan Extension Telegraph Co.)を設立し、デンマーク海軍のフリゲート艦の協力を受けて、清国沿岸から日本海にかけてケーブルルートの調査等を行っている。そして香港からケーブルの敷設を開始し上海−長崎−浦塩へと伸ばし、1871年末には敷設を完了している。併行して、ロシア当局の手で一万qに及ぶシベリア線路の建設も進み、GNTCの技術陣も協力して難工事の末、1872年1月に浦塩ケーブルと接続し、電信路は長崎からヨーロッパに結ばれた。
このようなGNTC側の経過を見ると、冒頭に述べた篤姫の舞台、江戸無血開城の明治維新が無かったら、GNTCの極東ケーブルは長崎を素通りしていたかも知れない。
何れにしてもGNTCは、上海を中心に中国大陸沿岸にケーブル網を廻らし1900年代初めには、本稿前編の末尾に掲げた「GNTCケーブル網・1907年」の如く欧亜を結ぶ電信網を経営する世界企業に進展した。まさにGNTCは今から一世紀前に全盛期を迎えていたのである。因みに上記の上海子会社は、極東ケーブル敷設後GNTCに吸収されている。また、この極東ケーブル事業を現地で指揮したのが、デンマーク海軍大尉出身の初代GNTC社長、その後会長も勤めたE.スエンソン氏である。
◆この浦塩ケーブルが当時わが国唯一の国際通信ルート、文明開化の先兵として大きな裨益をもたらしたことは多言を要しない。当初、長崎で受信した電報は国内を飛脚便で運ばれ、東京までは1週間余りを要したと云う。当然ながら国内通信路の建設が急がれ、長崎−東京間に電信線が完成したのがケーブル開通2年後の明治6(1873)年で、国内主要地からも外国電報の取り扱いが開始された。
外国電報には国際ルールの適用が必要であり、政府はGNTCの支援を受けて、早速万国電信連合(現在の国際電気通信連合)への加入を目指した。浦塩ケーブル開通の年には、わが国から電信連合の会議にオブザーバーを送って、料金制度などのルールを研究、国内諸制度も整備した。明治12(1879)年にはロシア政府の仲介により、当時の「セントピータースブルグ電信条約」に署名し、連合の正式メンバーとして加入を果たしている。
◆このような情況において、外国電報はもとより国内電信制度の整備にもGNTCのアドバイス・支援等を受けていたとされる。一方で、わが国の近代化・国力の増進に伴い明治中期頃からは、朝鮮半島や大陸方面への進出が盛んになり、わが国独自の通信路の開設(特に和文電報の取り扱い)が必要となったが、当初GNTCに与えてきた免許状が次第に障害となったことも事実。そのような経過は、KDD学園発行の「国際電気通信発達史(村本脩三氏編)」に詳しい。若干のトピックスを拾ってみよう。
陸揚げ免許の問題で見れば、例えば当初のデンマーク代表との交渉(明治3年)では、陸揚げ地点を長崎と横浜に限定して免許を与えたが、上述のとおり明治6年には長崎−東京間電信線路が開通したので、GNTCの横浜陸揚げ免許の取消しを計った。しかしGNTCは不安定な陸上電信線の補完としてケーブルの横浜陸揚げ権を譲らない情況が続いた。
◆さて、電信ケーブル全盛時代の波に乗ったGNTC事業ではあるが、その後の無線通信網との競争や国際情勢の変化に伴い困難な時代を迎えたことはGNTC百年史でも語られる。二度の世界大戦や日露戦争(1904~05年)・ロシア革命(1917年)の影響で電信ケーブルは屡々中断の憂き目に遭い、特に第2次大戦ではGNTC事業は壊滅的打撃を受けた。その中でも長崎−浦塩−欧州間電信ルートは戦後いち早く再開を見た。日本を統治していたGHQの勧告によるものだが、その復活を可能にしたのが、GNTC自身の生き残り企業戦略にもあったと見える。つまり、電信ケーブル全盛時代に築いた資産により、GNTCは経営の多角化を図っている。例えば、修理工場を通信機器メーカーとして立ち上げ、また他のメーカーとの合弁等で乾電池事業や移動通信機器事業なども創業。1928年にはそれらをGNTCホールディング会社に統括し、資産の管理活用で生き残りを図ったとされる。
◆JASCは1960年にGNTCからKDDに提案されたが、実は既に1950年代後半にKDDがソ連郵電省に働きかけて、シベリア・マイクロシステムによる日欧間電話ルートの構想をITU世界プランに掲げていた、と云う裏事情もあった(この事情については、本稿第6話「プロジェクトX談義」の末尾に述べる)。
KDDは対欧連絡の広帯域化として、GNTCのJASC計画を歓迎し協議に入ったが、完成までに凡そ8年を要している。事情の一つは当時インテルサット衛星システムが具体化し、特にインド洋衛星のカバレッジと競合することから、GNTCが投資に慎重になっていたことが挙げられる。なお、筆者は当時ケーブル関係の交渉を担当しており、1964年からはJASC交渉で、何度かGNTC本社(コペンハーゲン)での協議に参加する機会があった。紆余曲折を経て66年9月にソ連郵電省(シベリアルート担当)も加わる3者会議で基本合意に達し、ケーブル建設・保守協定の作成に入った。筆者はこの協定案が纏まった段階で67年にインテルサット担当に移ったが、明治維新から世紀を超えて日本と交流し日本人を知るGNTCとのJASC交渉は印象に残る経験であった。