≪ 不死鳥物語 ≫

〜 第12話:国際通信のルーツ 〜 前編

遠藤栄造  (2008年11月)
<写真1> 高台から浦塩港と中心街を望む

◆ 日本海を挟み一衣帯水のロシア沿海地方・ウラジオストク(浦塩)に、この度初めて訪れる機会を持った。同地は地理的にも歴史的にも我が国と関係の深いお馴染みの港湾都市であるが、実は軍事上の問題で1958年からは閉鎖都市となりベールに包まれていた。その後、ソ連邦の崩壊、ロシア連邦への移行により自由市場が復活し、国内外に開放されたのが10余年前の1992年のこと。今日では日本各地からも海空の定期便が往来し、国際都市として復興途上にあるようだ。

◆ 日本との関係について見ると、大正の中頃には浦塩に日本人の居留者が6千人を数え、中心街には日本町の賑わいがあったとされる。その頃に勃発したのがロシア革命(1917年)で、反共産各国に緊張が走った。共産化を怖れた欧米同盟国に協力した日本は浦塩に陸海軍(7万余)を派兵、いわゆるシベリア出兵(1918-22年)として知られる歴史である。
 そして、このシベリア出兵事件とそれ以前の日露戦争(1904-05年)の後遺症に因り、さきの太平洋戦後に日ソ間に不幸な関係が発生したとされる。つまり、終戦・日本軍の降伏直後に、ソ連の一方的な「日ソ中立条約」破棄、満州・樺太等への侵攻、そして日本軍人などの捕虜(百万人超とも云われる)のシベリア抑留と云う悲劇につながった。更にその時のソ連侵攻によるわが北方領土の占拠により、未だに日露間の平和条約が懸案のままと云う残念な現実がある。

◆ このように浦塩には暗いイメージが語られる側面もあるが、一方で吾ら永年通信事業に携わってきた者にとっては、日本の国際電気通信路を開いた因縁の地として記憶に深く刻まれる。つまり、幕末維新に遡る文明開化早々の明治4年(1871年)に長崎−浦塩間に海底電信ケーブルが開設され、日本を海外に結んだ最初の国際電気通信ルートの相手地である。このケーブルは太平洋戦争中に一時運用を休止したことはあるが、上記の悲しい歴史時代も乗り越えて維持され、戦後もいち早く運用を再開した。1953年のKDD発足当初の短波無線網時代には唯一の国際ケーブル・ルートであり、戦後復興の情報脈絡として活躍していた。その後は周知のとおり、広帯域通信網時代を迎えて、1969年には当時閉鎖されていた浦塩の東隣・ナホトカから南下して直江津に至る海底同軸ケーブル(JASC)が建設され、長崎に結ばれた旧電信ケーブルは使命を終えている。
 と云うわけで筆者は、我が国対外通信発祥のルーツとして、長崎とともに浦塩にも一度訪ねてみたいと思っていたところである。

◆ 去る9月、クルーズ船で日本海を渡り浦塩に寄港した。港は日本海に突き出したアムールスキー半島の先端に位置する金角湾内、長崎のように丘に囲まれる天然の良港、降雪も少ない不凍港である。帝政ロシア時代から重要な海軍基地として不気味な存在であった。今日も駆逐艦のような艦船が垣間見えるも、ロシア極東最大の国際都市として、現在の人口は凡そ60万、湖のような金角湾に商船の波止場もある。その岸壁と背中合わせでシベリア鉄道のターミナル・浦塩中央駅につながり、ここからモスクワに至る長距離列車が発着し、長蛇の貨物列車も動いている。駅ビルは帝政時代の面影を残し、待合室もロココ調に修復されてシベリアの玄関口としての雰囲気が漂う。街にはトロリーバスや市内電車が走り、急坂にはケーブルカーも運行しているようだが、駅前付近は自家用車が溢れていた。見たところ日本の中古車が大多数、最近は比較的程度の良い中古車が増えたとも云う。

<写真2>
シベリア鉄道のターミナル・浦塩中央駅
<写真3> 駅のプラットホームに飾られる
シベリア鉄道初期の機関車

◆ 吾らはバスツアーで市内の名所を一回り。バスガイドは日本語を勉強中の女子大学生。たどたどしい案内もご愛敬!?日本の老齢化社会から見ると、この街は若者で溢れていた。西欧都市と同じように日本レストランが繁盛しているとか、ガイド嬢もヘルシーなお寿司がお好き、家でも海苔巻きをよく作ると云うコメント。西欧の都市から見れば、浦塩はまだ田舎風の中都市と云う感じだが、流行は世界標準。ケイタイ電話で話しながら闊歩する若者(日本では危険な歩行中のメールが主流だが)、スマートな女性の服装は臍だしルック、何処も同じような気がした。
 偶々当日は金曜日で、花を飾った乗用車が多く見られ、教会に集まる幾組もの花嫁花婿のカップルに、友人やカメラ撮影などの取り巻きも賑やか。高台からは港と街並みが一望できた。高層ビルは余り見当らないが、緑の多い坂の街。帝政時代の重厚なビル、色彩豊かな教会、大きな革命記念碑や銅像が目に付く。丘の中腹では金角湾を跨ぐ架橋工事が進行中、APEC(アジア太平洋経協力会議)が数年後に開催されるとかで街の再開発が進んでいるようだ。
このツアーでは「C-56潜水艦博物館」を見学した。ソ連時代に活躍した古い小型潜水艦で公園の一角に設置し艦内を公開(有料)している。魚雷発射室・機関室(オイル燃料)・寝室などの珍しい施設で説明版もがあるが、残念ながら眺めるだけで理解困難。各部屋は円形の狭い通路で仕切られ、見学者で混雑していた。ご存知のように、ソ連時代から浦塩は原子力潜水艦の重要基地としてベールに包まれていたので、潜水艦見学には興味を持ったがこれは通常の潜水艦であった。なお余談になるが、先日の11月9日この浦塩近海で、ロシアの新型原子力潜水艦が試験航行中に消火器の誤作動(フロンガス漏洩)事故で、20名の死者を出したとの報道、ご承知のとおり。原子炉事故で無かったのは不幸中の幸いとしても、改めて日本近海は、米中露など多くの原子力艦船に囲まれるとの観を深めた。
 次に、自由市場と称する、近郊の遊園地を兼ねたマーケット広場を見学した。広い敷地に品目別(雑貨・衣類・食品など)、また食品では、肉・魚・野菜・果物などに分かれて幾つもの平屋建の集合店舗やテント張り露天商などが連なる。所々を覗いてみたが、品数は豊富で物価も日本より安いようだ。野菜・雑貨・衣料などでは、国境の近い中国、北朝鮮からの出稼ぎ露天商とおぼしきグループも多く見受けられ、国境貿易も盛んのようだ。

<写真4> 教会に集まる花嫁花婿
〜背景の建物は修復されたニコライ凱旋門〜

◆ 今回浦塩を訪ねたのは、冒頭述べるように老人の懐古趣味によるものだが、長崎−浦塩間海底電信ケーブルの遺跡などは残念ながら訪ねあてることが出来なかった。一世紀半を遡る史跡の話しは、閉鎖都市から開放されたばかりの若い世代には殆ど関心がないようだ。それでもガイド嬢曰く「恐らくケーブル陸揚げ端局は、中央駅の北西・金角湾岸にほど近い中央郵便局の辺りではないか」と解説してくれた。
 この電信ケーブルの長崎側については、戦後GHQの勧告で運用が再開されて間もない1949年(昭和24年)に筆者は、そのケーブルの施設・運用状況を見学したことがある。当時は長崎電信局の分局(外信課)であったと記憶するが、大北電信会社(デンマークGNTC)の駐在員が指導しており、建物や室内の設備は重厚な西欧様式の佇まいであったのが印象的。運用室では、クリード式受信機からトン・ツーのモールス信号がミミズのように歪んで一本の線になってテープに印字され、流れている。それをオペレーターが読み取りながら欧文タイプで電文に印字、特殊な技能である。  明治初期にGNTC社が長崎に陸揚げしたこの海底電信ケーブルについては、KDD社史にも紹介されているので、参照願いたいが、戦前の最盛期には長崎局と結ぶ対外海底電信ケーブルは8ルート(浦塩の他に、上海、大連、台北など)にも及び、電報取扱数は一日5千通、職員も80名を数えたという。戦後再開後も無線経由の電報との競争になったが、このケーブル経由では特に長文の新聞電報などの扱いが多く、報道関係からは正確・迅速との評価を得ていたと云う。戦前のGNTC長崎支店ビルは1933年に建て替えられ、1953年にはKDD長崎国際電報局(写真5)となった。

<写真5> KDD長崎国際電報局
<写真6>
GNTC長崎支店時代(1935年頃)の通信室

<写真7> 史跡保存される長崎小ケ倉千本の
「ケーブルハット」
◆ 兎も角、長崎−浦塩間電信ケーブルは凡そ一世紀にわたり、戦争など国際環境の変化にも対応しながら活躍してきたが、1969年には直江津−ナホトカ間同軸ケーブル(JASC)に移行して幕を閉じた。今日では、長崎ケーブル陸揚げの地「小ケ倉千本」に残る、ケーブル端末と試験施設を収容した小屋を「ケーブルハット」として史跡保存し、わが国国際通信のルーツとして記憶に留められる。
 なおJASC同軸ケーブルは、長崎電信ケーブルの近代化として建設され、引き続きKDD・GNTCの共同事業であったが、その後光ケーブル時代を迎えて、1993年には直江津−ナホトカ間にRJK(露日韓)光ケーブルが敷設されて、ロシア側通信事業体はGNTCに代わり「ロステレコム」社が担当した。つまり、ロシア側の政治・社会体制の改革に伴い、ロシア連邦の長距離通信(シベリア横断光ルート等)を担当する民営企業の「ロステレコム」がRJK光ケーブルの建設・運用に参加した。
 更にご承知の通り、先日のKDDI誌10月号によれば、本年9月にはKDDI・ロステレコムの共同で直江津−ナホトカ間に大容量のRJC(日露)光ケーブル・2本(障害時の自動復旧式)が敷設され、運用を開始した。わが国国際通信ルーツの浦塩−長崎海底電信ケーブルは、不死鳥の如く今日の光ケーブルに引き継がれて、日本から西欧に至る情報通信網の大動脈に発展している訳だ。(写真5、6、7は KDD社史より)

◆ この国際通信ルーツ・長崎−浦塩ケーブルについては多くのエピソードが語られる。先日偶々、小生は本棚を整理していて、GNTC百年史(1869−1969年)なるAB版ハードカバーの英文誌を見つけた。改めて拾い読みしてみると、GNTCは、この長崎ケーブル開通の数年前に設立され、そしてJASC開通の1969年に丁度百周年を迎えている。まさに日本の国際通信史とともに歩んでいることを改めて認識した。
 そこで本稿の後編では、このGNTC百年史や他の関係資料を参照して、日本の国際通信ルーツの発祥にまつわるトピックス等を拾ってご紹介したいと思う。

<写真8> GNTC運営の1907年当時の欧州−アジア間通信網(GNTC百年史より)