世田谷美術館のクヌギの木
2009年5月
大谷 恭子
■ おおらかに聳えるクヌギの大樹
誰にもお気に入りの場所というものがあると思う。たとえばそれがエディンバラの丘であったり、パリ郊外のジヴェルニーの村であったりすると、そんなに簡単に行くわけにはいかないので、心の中だけで想うことになる。しかし思い立つとすぐに行ける場所であれば、実際に度々訪れることができる。私にとって、そんな場所が世田谷美術館である。美術館といっても、展示された絵画を指すのではなく、正確にいうと、美術館とレストラン 「ル・ジャルダン」 の間に立つクヌギの大樹の前ということになる。この木は、堂々としていながら優美で、人のいろいろな思いをすべて包み込んでくれるような、生命の輝きというか、不思議な存在感を放っている。世田谷区の名木にも指定されていて、勇気や、希望、存在理由 (レゾンデートル) などを内面にきちんと具えもつ風格のある木とでも形容すればよいのであろうか。もしも 私がもっと若くて、何にでも感動するような年頃であったなら、きっと自分の好きな人をここに案内しただろうなどと思う。
■ 世田谷美術館に向かう道
この美術館が開館したのは1986年、緑豊かな広大な敷地を持つ砧公園の一角に建つ。私は横浜に住んでいるので、ここへ向かうとき、いつも田園調布から千歳船橋行きのバスに乗る。すると途中、小学校から高校の頃を過ごした等々力や上野毛を通るので、窓の外を懐かしい景色が通り過ぎてゆく。この辺りは、いまも大きな樹が沢山残っていて、ほっとした光景が窓外を流れる。豊かな自然は何とすばらしいのだろうと思う。
私の幼友達は、いまも等々力周辺に住んでいる人がかなりいて、中には等々力渓谷の保存委員を務める人や、樹齢何百年という立派な樹を境内にもつ玉川神社に縁の深い人などもいる。また、趣味で焼物をしている人もいて、先日はその人の属する会の作陶展が、世田谷美術館・区民ギャラリーで開催された。こうした背景も、私が世田谷美術館のクヌギの大樹に愛着を覚える所以なのかも知れない。
若葉をまとったクヌギの木 (2009年4月30日撮影)
葉を落としたクヌギの木 (2008年12月18日撮影)
クヌギの木の前の彫像 (バリー・フラナガン制作)
「馬とクーガ」 (1984年作)
芸術的なクヌギの枝ぶり (2009年4月30日撮影)
■ 世田谷美術館のクヌギの木から連想する本
このクヌギの大樹を見上げるとき、あるいは思い出すとき、私にはふと心をよぎる本がある。一冊はシェル・シルヴァスタイン原作の絵本 『おおきな木』、もう一冊はジャン・ジオノ著 『木を植えた人』、あと一冊は、井上靖著の 『欅の木』。いずれももう何十年も前に読んだ本なのに、木についての描写の部分だけは、何故かよく覚えていて、私の中のどこかでこの世田谷美術館のクヌギの木と響き合って受け止められているような気もする。
以下にこれらの本のストーリーを簡単に紹介する。
☆ シェル・シルヴァスタインの 『おおきな木』( 原題:The Giving Tree )
昔、りんごの木があって、かわいいちびっこと仲良しだった。木はちびっこが大好きで、ちびっこも木が大好きで、だから木は嬉しかった。しかし時が過ぎ、ちびっこは、大人になり、自己本位な男へと変わり、木に会いに来なくなってしまう。そんなある日、男がまたやって来て、お金が欲しいんだという。
本の中の挿絵より
木は、私にはお金がないから代わりにりんごを持って行き売るといいよといって、自分の実をすべて与える。次には家が欲しいといわれ、その枝をすべて与える。また次には、遠くへ行く船が欲しいといわれ、その幹を与え、ついには切り株だけになってしまう。男は船を作って出て行き、長い年月ののち、老人となってもどってくる。木は、私にはもうあげられるものが何もない、ふるぼけた切り株だからという。すると男は、いまは座って静かに休める場所さえあればいい、わしはもう疲れ果てたとこたえる。木は、それならこの切り株に腰掛けてお休みといい、男はそれに従った。木はそれでうれしかった、でこの物語は終わる。寛大な木 …。
☆ ジャン・ジオノ著 『木を植えた人』
ラヴェンダーのほか、なにも生えていない南仏プロヴァンス地方の荒野を旅していた青年が、一人暮らしの老人の小屋に泊めてもらうことになる。老人の名はエルゼアール・ブフィエ。羊飼いだった。ブフィエは、羊の群れを牧草地に連れて行くかたわら、親指ほどの太さの鉄の棒を地面に突き刺しては穴をつくり、そこへドングリを一ついれ、上をふさいでいく。一粒ずつ心を込めて、100個のドングリを植えていた。ブフィエは人住まぬこの地にドングリを植え始めて3年になるが、10万個植えた種のうちに2万個が発芽し、そのうち半分しか育たないだろうといった。ブフィエが、誰のものとも知れない土地にドングリの実を埋めて、樫の木の林を作ろうとしているのを知り、青年は驚く。やがて、第一次世界大戦が過ぎ、第二次世界大戦が過ぎる頃、かつての青年がその地を訪れると、荒野だった筈のプロヴァンス地方が、緑豊かな田園地帯と変わっていて 「その森は少年のように優しく、凛とした風情があった」 という。老齢のために徴兵を逃れたブフィエが、戦争の間も40年に亘り絶えることなくドングリを植え続けていたのである。ブフィエは、そのとき既に87歳になっていたというお話。
☆ 井上靖著 『欅の木』
この小説は、1970年に日本経済新聞に連載されたものである。主人公は、還暦に近い中流会社の社長で、社会的にもかなりの地位を占めている潮田旗一郎。ある日、新聞に頼まれ 「自分の若い頃の武蔵野には、けやきの美しい林があったが、いまはもうその面影はない。名残のけやきの木はまだあちこちに残っているので、これからは武蔵野を象徴する欅の木を一本なりとも切ってはならぬ」 という随筆を書く。すると、読者の爆発的な反響を呼び、彼の前には、けやき気違いの老人をはじめ、自然を愛し守ろうとする名もない庶民が次々と現れる。特別なストーリーはないのだが、けやき老人に案内され、彼は夫人と共に東京で最も見事だという欅の木を見て廻ったりする。中野の小学校の校庭に立つ最年長者のけやきの巨木を見たり、阿佐ヶ谷の旧家風の屋敷内にある樹齢三百年以上の欅の梢を見上げたり、高井戸のけやき並木を通り過ぎ、次は狭い路地を抜けて小さな稲荷神社の裏に立つ枯れた欅の巨木に触ってみたり。それらの立派な欅を見た後の夫人の感想が面白い。「欅には老いの醜さがありません。人間ではなかなかあのような老紳士はいません。気難しいところも、意固地なところもありません。二、三百年も生きているのですから、いろいろな過去を持っていることでしょうし、悲しい時も、苦しい時も、腹立たしい時もあったと思います。でもそんなことはいっさい顔に出さない」 と。
また、けやき老人がしみじみと語る、次の言葉も印象深い。「昔の人間は自然に守られておりましたから、心根は優しゅうございました。山を見ると美しいと思い、木を見ると美しいと思いました。」 「たくさんの言葉がなくなりました。“清貧” “知足” “清楚” “謙譲” “克己”。」
■ 木の優しさ
以上に紹介した三冊の本の共通点は、木の優しさというか、寛容さのようなものに、しみじみと向き合っている語り手の心持ちであるような気がする。井上靖氏は、 『欅の木 』の中で、主人公に 「どうして、こんなに欅の緑が好きになったのか、それは自分の年齢に関係があるかも知れない」 と語らせている。「若葉の新しい緑が美しく見えるのは、失われた青春への郷愁」 であり、「花の美しさは子供や若い人にもわかるが、一枚一枚の若葉の自然の美しさは、この年齢になって初めて判った」 とも。
そういえば、私自身を振り返ってみても、世田谷美術館のクヌギの木を本当に美しいと感じ始めたのは、そんなに昔からではなかったように思う。ある年齢特有な自然への懐郷心とでもいうのであろうか。最近、クヌギの大樹を見上げると、『おおきな木 』に出てくるりんごの木の寂しさ、哀しさ、寛容さがひしひしと胸に伝わってくる。もう求めることのできない母親からの優しい労わりの言葉などを想い起こしながら。
私もクヌギの木を前にして、ひとり次のような相談を持ちかけてみた。「私はこのところ、昔のように油絵が描けません。自分で想像するようなよい絵が描けないのなら、いっそのこと、もう絵は止めてしまおうと思っています」 とつぶやくと、クヌギの木が、「他人に見てもらうような、格好よい絵を描こうと肩に力を入れるから描けないのではないのかなあ、絵は心に感じるありのままの姿をスケッチし、自分の好きな色を置いていくだけで楽しい筈なのに。たとえば私の木の枝の間から見える青空や、流れる雲や、風の音を色に置きかえてみては?」 という答えがもどってきた気がした。
そこで、家に帰り、パソコンに写真を取り込み、クヌギの木の美しい枝ぶりの間に、色を置いてみた。もしかすると、こういう試みから、また油絵が描けるようになるかもしれない。
<クヌギの木の塗り絵>
| |
| |
No.1 オリジナル写真 | No.2 空の色を変えてみる | No.3 枝の色も変えてみる | No.4 空と枝の色を変えてみる |
私にこのような遊び心を気付かせてくれたのも、世田谷美術館のクヌギの木だった。