トップページ アーカイヴス 目次 それは苦渋の選択だった

第3章 金谷の里道 -- それは苦渋の選択だった -- <由比→掛川>

(静岡、藤枝・・・、街道の賑わい)

11月28日 8時前、薩捶峠。稀有の好天に恵まれ、快適な朝のハイキング。 08時45分、道は下りとなり、峠越えは終わった。由比からの歩行距離は3キロほど、興津の町の東端、JR興津駅の約1キロ手前の地点である。海岸沿いの国道一号に、右手北方から国道52号が合流してくる。その道には北から路線バスも入っている。もう歩かずに済むのである。
国道52号は『身延道』と呼ばれ、古くから駿河と甲斐を結ぶ街道であった。そして現代でも、この道を通じて興津の生活圏は北に広がっており、その結びつきは東の由比方面よりも強いように見受けられた。バス停の時刻表によれば、国道52号から興津を経て清水方面へはバスが毎時4〜5本という大都市並みの頻度で運行されている。因みに、興津は行政上、清水市に属している。
09:30、来かかった清水行きの東海バスに乗り、09:55 清水駅前着。
清水からは静岡鉄道で静岡まで行く。これは予定された行動である。JR駅とは少し離れている「新清水駅」まで歩き、10:10発の電車の乗った。
清水市と静岡市は境を接し、連続した市街地を形成している。両市の中心部を結ぶ「静岡鉄道」は複線電化、頻行ダイヤの民鉄で、JRとほぼ並行している。途中駅はJRの2駅に対してこちらは12。典型的な市街地ローカル鉄道である。通勤電車みたいなものだから鉄道マニヤの私でも余り面白味を感じない。10:30 終点の新静岡駅着。
静岡鉄道の「新静岡駅」はJR駅の北 500米、バスターミナルと同居の施設で、バスに乗り継ぐには都合が良い。けれどこのバスターミナルは何と巨大なことか、地上・地下の二層となっていて多数のバスが各方面にひっきりなしに発着している。さすが東海の富裕県・静岡の交通中枢である。
私たちはここからバスで藤枝、島田方面を目指す。たしか藤枝方面への路線があったはずだと探し回っているうちに「丸子」行きというバスが目に入り、衝動的にそれに乗ってしまった。丸子は東海道の旧宿場で藤枝の手前である。藤枝へは「轟橋」という所で乗り換えねばならない。あとで知ったことだが、静岡〜藤枝間は直通バスが10分間隔で運行されていたのである。
ここで県庁所在地・静岡と中堅都市・藤枝の間の交通事情について考察してみよう。静岡まで仲良く並んできたJR東海道線と国道1号はここで二手に分かれ、JRは焼津経由・海岸寄りルートを、国1は山寄りの岡部経由で、ともに藤枝に向かう。後者が江戸時代の旧東海道のルートを下敷きとしているのに対し、前者は明治期、地元の鉄道反対運動のために険しい海岸沿いを余儀なくされたという経緯がある。その結果、途中の宿場町「岡部」は鉄道からとり残されてしまった。その後、このハンディをカバーすべく、静岡〜岡部〜藤枝には路線バスを主体とする交通網が発達した。現在の10〜15分間隔という大都市市街地並みの運行密度は、このような歴史に由来すると考えられる。
11:13 轟橋から藤枝行きのバスに乗る。バスは時に旧道や脇道に迂回しながらも概ね国道1号を行く。途中、岡部町の手前での峠越えの箇所を除けば道筋はどこも賑わい、活況を呈していた。交通量も多く、渋滞にも何度か遭遇した。12:15 藤枝駅前着。駅前喫茶店で昼食をとる。

13:40 藤枝駅前から金谷行きバスに乗った。静岡〜藤枝間がJRから離れて『東海道メインルート』の観を呈しているのに対し、藤枝から先はJRの補完ルートとして、バスの運行密度も3時間に2本くらいの割と、下がっている。バスはJRに平行する国道を西へ進み、島田駅を経て大井川を渡り、金谷駅前に終着した。
実をいうと、藤枝で金谷行きのバスに乗り継ぐ時に、不安を感じていた。昨日の経験から私は、東海道メガロポリスの市街地が北から迫る山地に分断されるとそこには路線バスがない、ということを学んだ。金谷で五十三次の旧道は石畳の峠越えとなり、現代の鉄道はトンネルに入る。ここでも市街地が途切れるのである。
このような不安はあったが、さりとて他に術(すべ)もない。沼津以西ここまでの惰性で、旧五十三次の東海道をトレースするしかなかったのである。
つづく


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