トップページ アーカイヴス 目次 それは苦渋の選択だった

(それは苦渋の選択だった)

金谷の山は、薩?峠の次に所在する東海道の険路、東海メガロポリスの市街地は、ここでも一旦途絶え、西へ向うバスの路線は途絶える。金谷へ来てしまったことは間違いだったのだ ---。
だが、地図を眺めているうちに、次のことに気が付いた。
榛原の南は御前崎である。内陸を行く東海道(鉄道/道路)を底辺とし、御前崎を頂点とする逆三角形の内側は、なだらかな丘陵地帯であるが比較的拓けているかに見える。三角形の他の2辺、駿河湾と遠州灘には榛原、相良、浜岡・・・、など、いくつかの町が連なる。国道-150号が海岸を走り、地方道がこれらの町々を結んでいる。JR東海道線は遠く、域内に鉄道はない。
昨日、静岡〜藤枝にてつぶさに見聞した事実によって、私は、鉄道と無縁ながらよく拓けて豊かな地域には如何にマイカー全盛時代といえども路線バスが健在であることを知った。上記の町々はなんとなく、路線バスで結ばれているような気がする。それを探りながらが、出たとこ勝負の旅を続けるのも面白いではないか。今次へそ曲がり旅行の主旨にも馴染む行為である。
だが、この手段は試行錯誤の連続となる。もう二日目を費やしているこの旅がますます長引き、いつ終わるか分からなくなる。さしづめ今夜は御前崎近くの馴染みない土地で宿を探し回わるハメになるだろう。
一方、日坂まで10キロ余の徒歩行を堪え忍べば、市営バスに乗り継いで今日中に間違いなく掛川に到達できる。掛川にはビジネスホテルなども沢山あって宿泊には事欠かず、翌日は天竜浜名湖鉄道経由、豊橋から終着地大阪に行きつけることがほぼ確実である。
この旅の第1の眼目は、所定の手段と条件の枠内で可及的速やかに、−−遅くとも3日以内に大阪へ到着することにある。それに、現役の社会人たる紐育君は明日中に東京へ帰らねばならぬ、という現実の制約もある。先刻からの駅と町との間の彷徨に2人とも疲れ、うんざりしているが、当面の目標に向かって進まねばならぬ。
「やっぱり歩こう」。私は紐育君に引導を渡した。それはクジュウノセンタクであった。

金谷駅からの出だし、史跡として復元された石畳の箇所を過ぎると、あとはひたすらに茶畑の丘陵を行くばかりである。国道1号の南側にそれとほぼ並行するこの道は旧東海道、『小夜の中山』とか何とか称する旧街道の名跡の一つなのだが、要するに只の道、しかも、やたらに坂が多い。何の因果でこんな目に遭うのだ、といいたげな顔の紐育君。私の方は身から出た錆だから文句を言う筋合いも権利もないのだが、疲れと嫌気は同様である。こんな状況は思い出したくもないから記述は省略して、とにかく2時間余を費やして疲れ果てて日坂に着いた、とだけ書いておく。

その昔、五十三次の宿場として賑った日坂は、今は"僻村"といった感じの地であるが、"村"内各所にはバス停の標識がいくつか立っていた。ところが、そのどれにも、道路工事のため臨時にルートが変わり、停留所は他所に移されている旨の貼り紙が付いている。移転先の略図も付されているが、それはよそ者には分かりにくい。もう夕暮れである。万一最終便に乗り損なったら大変である。私たちは大事をとって、以前立ち寄ったことがある集落西端のバス停まで疲れた足をさらに運んだ。
そこは国道1号との合流点で、村の鎮守様、といった感じの神社の鳥居の前であった。神社の名は『事任八幡宮』。『事任』には『ことのまま』とルビが振ってある。ことのまま八幡宮。有るがままを肯定し、一切を成り行きに任せる、との意だろうか? 思わず微笑みがこぼれるようなオプテミズム・・・。社務所でその由来を尋ねてみようか、それにはお札を買わねばなるまい、ウン百円の支出を要する・・、などとケチなことを考えているうちに社務所の灯りは消えてしまった。時刻はすでに5時をまわり、辺りは夕闇に閉ざされはじめた。
私たちは、ことのままに『町営』バスに揺られて終点の掛川に着き、駅前のビジネスホテルにチェックインした。食事のために入ったヤキトリ屋で、私はことのままに、したたか酩酊し、紐育君の顰蹙を買った。
つづく

参考) 金谷〜日坂の道、その後について。
一昨年が宿駅制度400年に当ることもあって旧街道史跡として整備され、面目を一新しました。道標が整備され、距離も6キロ余りと短縮され、快適なハイキングコースに生まれ変わっています。

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