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その後の静御前

1 まえがき

NHKの人気番組、大河ドラマの「義経」がいま大詰めを迎えようとしているところであるが、ここに出てくる静御前は、その母、磯禅師が私の郷里、讃岐(香川県)の出身であり、そこには、古くから伝えられてきた静御前の悲しい後日物語があるのでその概要をここにご紹介したい。
静御前の末路については他にも色々な説があるが、本文は、この土地の郷土史(長尾町史)(三木町史)などを参考に、史実の年表とも照合しながら、筆者がそれなりの物語を簡単に書き綴ったものである。

2 静の母、磯禅師

磯禅師は香川県大川郡大内町丹生小磯の生まれで、長承二年(1133)、十二歳で京都に上り、芸能師、青柳の内弟子となって“舞”の道を修め、更に鳥羽院のとき、藤原道憲に従って舞楽の一種を極め、禅師の称号を授けられるまでになった。この舞楽は白水干、立ち烏帽子(えぼし)を用い,太刀を帯びた舞で“男舞”とも呼ばれた。

3 静御前

磯禅師の娘、静は母に似て美しく、幼少より舞を修めたが、彼女の場合は太刀を用いなかったので白拍子と言われた。十三歳で宮中節会(せちえ)に奉仕することを許された。義経が京へ上って義仲を討った直後のころ、静は十五歳で義経の愛妾となった。この時、義経は二六歳であった。
その翌年、義経主従が屋島攻めで、あのような少数の軍勢で電撃作戦に成功したのも、彼らが四国に上陸したところから屋島へ向かう途中が静御前の母の出身地であったことを考え合わせると、彼女の地縁、血縁による支援があったのではないかと思われる。
義経が平家を滅ぼした後、彼が兄頼朝に追われる身となって、吉野山に分け入るとき、静御前もそれに従ったのであるが、女人禁制の山とて同行がかなわず、義経から与えられた形見の“鼓”を手に一行とわかれ、京都へ戻る途中で捕らえられた。頼朝は静を鎌倉へ呼び寄せ、義経の行く先を厳しく尋ねたが彼女は頑としてそれには応じなかったという。
文治二年(1186)四月八日、鶴岡八幡宮の落成式で、静は奉納舞を懇請され、頼朝初め多くの武将が居並ぶ中で、あの有名な『しずや・・しず・・』と、彼らが敵とする義経を恋い慕う歌をと唄いながら舞った話は、鎌倉武士の度肝を抜く余りにも有名な話として、皆さんご存知の通りである。
それから暫く経って彼女は義経の子、男児を産むが、その日の内にわが子を殺され、傷心のうちにも、母と共に京都へ帰り、法勝寺の一室に淋しく身を寄せた。

4 やがて母の故郷へ

京都に戻った静は、旅の疲れと、義経恋しさの余りか、病に伏す身となり、母もその看病に疲れて、ひたすら郷愁を感じるようになった。そこで彼女は母と共に、母の故郷、讃岐の国の小磯へ帰るのである。これは文治三年の春頃ではなかったかと思われる。
四国へ帰ってからの彼女は、なおもその病状がはかばかしくなかったこともあり、義経の安否も気にかかるので、母と共に近隣の,寺社巡りを始めた。
文治四年(1189)三月二十日、長尾寺(四国霊場87番札所)にお参りしたとき、九代住職,宥意和尚から「いろはうた」によって、世の無常を諭され、ここで彼女は決意して、得度を受け、髪を下ろし、母は磯禅尼、静は宥心尼と名乗るようになる。
そして、義経からもらった形見の“鼓”も煩悩の種と思い切って川へ捨てた。この鼓は“初音の鼓”といい、紫檀(したん)の胴に羊の皮を張り、特に音色の優れた逸品として平家の重宝でもあったのだが、屋島の戦いのとき、取り落としたか、あるいは捨てたか、波に漂っていたのを伊勢の三郎が熊手でかきあげ、義経に献上したものであった(初音の鼓,玉藻集)。
ここで静が髪を下ろした時というのは・・・偶々、義経が平泉で打たれる(同年四月三十日)直前のことであったわけで・・・神仏のみぞ知る・・、人の世の哀れと言うか、私たちは因縁のようなものを感ぜずにはおられないのである。 それからの彼女はささやかな草庵(現在の三木町井戸中代にある薬師庵、あるいは静庵ともいう)を結び、日夜、念仏を友とした日々を送る。

5 静御前の最後

静御前が草庵を結んでから二〜三ヶ月のあと、静の下女であった琴柱(ことじ)が、はるばると京都から訪ねて来た。再会の喜びもさることながら、この時、静は琴柱から義経の最後を聞かされたのであろうか。
それからの静は、琴柱と共に、ひたすら念仏三昧の月日を送っていたのである。彼女にとってはこの頃が誠に平穏な日々であったと思われる .... 。
しかし、建久元年(1190)十二月二十日、母の磯禅尼が長尾寺からの帰りに井戸川のほとりで老衰と寒さのために路傍に倒れ、六九歳で亡くなった。
その後の静はまた病状が悪化し、ほぼ二年後にこの世を去った。建久三年(1193)三月十四日、彼女は二四歳であったと、かなり風化が進んだその墓石から読み取れる。(彼女の墓は近くの池の堤にあって、そこからはあの屋島の古戦場が遠望できる)
静が亡くなってから七日の後、琴柱もまた静庵のほとりにある鍛治池に入水して相果てたという話が残されている。なんとも悲しい物語ではないか。

6 あとがき

静親子が得度したという長尾寺には現在も静御前の剃髪塚、宥意和尚墓、宥心尼位牌、いろは塚、筆塚などがあり、井戸川橋県道沿いには磯禅尼の墓、昭和地区には“初音”の鼓淵がある。
静御前の末路については史実が明らかでないため、例えば、静が奥州にいる義経を慕って福島まで行って亡くなったなどいう話も含め、各地にその伝説が作られており、その遺跡は全国で二十数か所も散在するといわれるが、長尾町の安松九一氏はそれらの遺跡をことごとく調査して、香川県の大川、木田両郡にまたがる遺跡こそ相互に関連があり、最も真実味を帯びたものであると郷土史に明記している。
その遺跡とは大内町小磯の静屋敷、先祖の墓所、合祀権現、化粧井戸、観音庵、戎神社、男島、女島、小磯川、姿明神、三木町中代の静庵、静御前本墓、位牌、下女琴柱の墓、同町下高岡願勝寺の静御前墓、位牌、静手植えの松、および、前記長尾町関係のものとされているが、筆者は長尾寺に足を運んだだけで、他の遺跡についてはまだ現地での取材は行っていない。
この文章は「まえがき」でも述べたように香川県の東部にある長尾町と三木町の郷土史を下敷きに筆者なりの肉付けを行ったものである。いずれは夫々現地での調査も行ってみたいと考えている。
(2005年12月3日)


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