四国霊場と西行の足跡
トップページ 会員の広場 アーカイヴス 四国霊場と西行の足跡

四国霊場と西行の足跡

横井 寛

1 まえがき

  最近は四国遍路がブームといえるほどの賑わいである。バスで巡る団体さんや個人での車遍路、そして昔ながらの歩き遍路とさまざまである。
  四国霊場八十八ヶ所の札所を寺から寺へと巡拝して回る、それはそれでよいのだが、夫々の土地での歴史や伝説を知ってお参りするとお遍路の味もまた一段と味 わい深いものとなる。
  本文は私の生まれた丸亀市とその周辺における四国霊場とそれにまつわる西行の歌や話を纏めたものである

2 崇徳上皇と西行法師

  保元の乱に敗れて讃岐の国へ流され恨みを抱いて崩御された崇徳上皇の霊を弔うために、西行は仁安二年 (1167年) の秋、はるばると四国、讃岐の国を訪れた。
  西行は出家する前、北面の武士として、鳥羽天皇や崇徳の母 (後の待賢門院) などのお傍に親しく仕えていたこともある。西行と崇徳は年齢も近く、また二人は和歌の道でもその時代における双璧とされており、その後、二人が送り交わし た多くの歌を見ても、両人はかなり親密な関係にあったと思われる。

3 第七十九番 「天皇寺」 と第八十一番 「白峰寺」

  西行が讃岐を訪れたのは崇徳上皇が崩御されてから四年後であったが、上皇が住んでおられたところの遺跡は既に跡形もなくなっており、白峰の御陵も荒れ果て ていた。上皇が崩御された直後はその祟りを恐れて、何もかも抹殺することに急であったのかもしれない。抹殺といえばこの地の伝承として、長寛二年 (1164年) 八月二十六日、上皇は朝廷から使わされた刺客、三木何某、により綾川のほとりで暗殺されたことになっている。
  上皇の遺体は、崇徳を祀る現在の白峰宮、第七十九番札所・天皇寺からほど近いところに湧き出る霊水、 「八十場 (やそば) の水」 に二十日間も浸してその腐敗を防ぎ、京都からの検視役を待ったという。遺骸は白峰の山で荼毘に付された。 讃岐へ来た西行は先ず初めに崇徳の御陵を修復した。伝説によれば、このとき、ご廟、鳴動して崇徳の御製あり、
    松山の浪に流れてこし船のやがてむなしくなりにけるかな
  これを受けて西行は
    よしや君昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせん
  と吟じた、という話が残されている。雨月物語にもここで崇徳と西行が語り合う場面があるが、崇徳はよほど無念であったのに相違ない。
  さて、第八十一番札所・白峰寺の本堂に向かって左側、勅使門を潜ると頓証寺殿がある。ここには観音様の他、崇徳の位牌が祀られており、そのすぐ裏側の少し 下がったところが崇徳天皇の御陵である。我々がこの札所で頓証寺殿を拝むと自然に崇徳の御陵にもお参りしていることになるのである。
  その後、西行は善通寺を訪れる。西行は弘法大師に深く帰依していたようで、高野山へは何度も足を運び、そこに滞在していたこともあるが、大師生誕の地であ る善通寺を訪れることもまた長年の夢であったに相違ない。
善通寺の風景1 善通寺の風景2 捨身ヶ嶽・禅定1 捨身ヶ嶽・禅定2
善通寺の風景捨身ヶ嶽・禅定
横井南邨 (筆者の父) の画帳より

4 西行三本松

  西行が白峰から善通寺へ向かう途中、柞原 (くばら) の里 (現在の丸亀市柞原町) に立ち寄ったとき、余りにも荒れ果てた原野に円い石があり、村人に尋ねたところ、「昔この地に住吉大神をお祀りしてあったところ」 と答えた。西行は 「この石は本朝和歌の大祖である」 と申されお祀りし、その脇に小松三本を植えて立ち去った。後年この松は大木となり、村人は 「西行三本松」 として語り伝えた。この松は江戸時代末期にみんな枯れ果ててしまったが、その古木の根元が今も高憧 (こうどう) 神社境内のお堂 (国道11号線の沿線) に保存されている。
  このお宮は私の生家の氏神様でもあり、私が小学生のころ (1940年) に西行三本松のお堂が建てられたのを覚えている。また筆者の兄の話によれば、今も高憧神社のご神体となっている“円い石”、つまり西行が見たというその石 は、本当に円くて美しく、不思議な光を放つかなり大きな石であるとのこと。兄はそのご神体を拝見したことがあるという。

5 第七十五番 「善通寺」 の 「玉泉院」 に滞在した西行

  善通寺の大門から南西に二百メートルくらい、狭い路地の右側に玉泉院というお寺があり、その片隅に小さな祠と 「玉の井」 という古い井戸がある。その立て札には、「弘法大師が自ら泉を掘って本尊の阿弥陀如来に水を備え 「玉の井」 と称した。後に西行がここに住み、次の歌を詠んだ」 と書かれている。 岩に堰く阿伽井の水のわりなきは心すめども宿る月かな
  玉泉院は小さいけれど詩情あふれる閑静な寺である。ご本尊は阿弥陀如来。庭の掃除をしていた和尚さんがこの寺に滞在したという西行法師の話をしてくれた。
  西行は白峰の御陵を修復した後、弘法大師誕生の霊地である善通寺を訪れ、この庵でその年を過ごしたという。この寺には西行法師の小さな石像があった。作者 は不明、顔のところがかなり痛んでいるのは惜しまれるが相当の年代ものである。和尚さんの話では、西行庵は吉原の山中にあったという人もいるが、それは根 拠のない俗説で、赤松景福氏著 「讃岐名所歌集」 もそれは誤りであるとしている。これに拠れば、
  … 久 (ひさ) の松、善通寺より南一丁ばかりのところにある一本の松なり。また名残松という。下に小堂あり。西行の石像を安置す。また草庵あり。西行庵という …、いかに行脚僧といえ、短期間で処々に庵を結ぶことはないであろう・・と。
  西行が滞在したときにもこの院は寺院としての建物 (お堂) があった。西行が住んだのは藁葺きの小さな庵であったかも知れないと和尚は言った。ここは当時、善通寺の境内の一部であったといわれる。元々善通寺境内に は多くのお堂が立ち並んでいたが弘化年間にその大部分は喪失してわずか十六寺しか残っていなかった。今も現存するのはこの寺のほか二寺のみである。

6 第七十二番 「曼荼羅寺」 、第七十三番 「出釈迦寺」

俗説として西行が滞在したとされる吉原というところ、ここは善通寺の西側、四〜五キロのところで、絵のような山並みが連なり、その山腹には第七十二番札 所・曼荼羅寺、第七十三番札所・出釈迦寺がある。出釈迦寺から約二キロの山道を登ると番外札所の奥の院、があり、その上に 「捨身が嶽・禅定」 がある。
  この 「捨身が嶽」 は大師が七歳の頃、死を決して身を投げたという伝説の場所である。
      「望みがかなうならば生きて衆生を得度し、かなわぬときは一命を捨ててこの身を諸仏に供養し奉る」
  と唱えて幼い大師が捨身ヶ嶽から身を投げると、紫雲と共に釈迦如来が現れて大師を抱きとめたといわれる。そのとき天女が舞い降り羽衣で大師を包んだという 伝説もある。
  このあたりは西行の山家集にも詳しく書かれており、間違いなく西行はこの辺りを訪ね、捨身が嶽・禅定にも登ったものとみなされる。
     巡り逢はんことの契りぞありがたき厳しき山の誓い見るにも 西行
  曼荼羅寺には、伝説として、西行が昼寝をした石というのが本堂の前の置かれており、また西行の同行者がこの昼寝石の傍の桜の根元に笠を忘れ、そのまま行っ てしまったという笠懸桜もいまはなくて碑のみが残っている。
  吉原説というのは、その曼荼羅寺から近いところにある“水茎の丘”に西行が庵を結んだというもので、何年か前にそこに小さな庵が作られたが、しかし、元々 ここに建物があったという記録はない。白州正子氏の著書 「西行」 では、山家集に西行が“厳しき山”に庵を結んだとあるから、平野の中の善通寺ではないと想定し、吉原説を取っているが、この善通寺はすぐ傍まで厳しきしい 山が迫っているのを見落としたのだろうか。
  白洲氏の“西行”によれば、彼女が西行の取材で讃岐へ来たとき、善通寺の本堂 ( 御影堂の誤りか) でお喋りをしていた若いお坊さんに西行のことを尋ねたが、その折、冷たくあしらわれたようで、 「西行なんかまるで眼中になく、ここは弘法大師一辺倒なのだ」 と書き、また玉泉院のことも 「何の風情もない建物であった」 とけなし、後述する 「久の松」 の歌も周囲の環境にそぐわないから、西行がここで詠んだのではないと断定するように述べている。
  白州氏は筆者の家 ( 東京都町田市) の近くに住んでいた作家で、その住居跡はいま武相荘 ( ぶあいそう) として彼女の遺品の展示室になっている。筆者は彼女のファンでもあり、彼女の悪口は言いたくないのだが、この讃岐における西行庵については、いささか感情 に走った書き方をしているように思われてならない。

7 西行庵と 「久の松」

それはともあれ、 「玉の井」 の井戸の脇にあるこの庵は西行にとって親しいものであったに違いない。彼の歌が幾つか残されている。
     いまよりはいとはじ命あればこそかかる住まいのあわれをも知れ
     久に経て我が後の世をとへよ松跡しのぶべき人もなき身ぞ
     ここをまた我住みうくて浮かれなば松はひとりにならむとすらむ
     これらの歌は、その庵生活にも慣れてきたころの述懐であろうか。
  古屋利之氏の著書 「西行探求」 にも 「西行はこの庵 ( 玉泉院) で冬を過ごし、庭の松 ( 久の松) にも愛情を歌に残して、また流浪の旅に出て行くのであった」 と書かれている。西行は桜と松を特に好んだようである。以後、人々はこの松を 「久の松」 と称するようになった。
  西行が住まわれた 「庵」 は幾度か再建され今では当時の面影を知る由もないが、この老松 「久の松」 が唯一の証として長い間大切に保護されてきたのであった。しかし、それもいまは枯れ果てて、その切り株だけをとどめ、そのそばに新しい松が植えられてい る。
  この玉泉院では末永く 「久の松」 の名を残すためにお線香 「久の松」 を作って販売している。澄んだ心にしみ通る上品な天然白檀の香りがするお線香である。

8 あとがき

本稿は、西行の著作“山家集” 白州正子著“西行”ならびにこの土地の郷土史、および善通寺・玉泉院の和尚から聞いた話や送って頂いた幾つかの古い文献のコピー、また筆者の兄の話などを 元に、筆者自身が自分の足で確かめたものである。
  当初は、筆者の著書『準・歩き遍路のすすめ』 ( 講談社+α新書) の中に入れたいと考えたのだが紙面の都合で割愛せざるを得なかった。
( 2006年3月21日)


前のページに戻る