> 昔の思い出 <
ハイジャックに遭ったこと
横井 寛
それはもう30年以上も前の話であるが・・・あるとき、小野田寛郎少尉の話をTVで見ていて、私がハイジャックに遭ったのは彼がルパンング島から帰国したその日であったことを思い出し、あの時のことを私も記録に留めておかねばとこれを書き始めた次第である。
1 返還後、間もなくの沖縄へ
それは昭和49年(1974年)3月12日とTVでは言っていたが、私の記憶では3月9日であったような気がする。私の記憶違いであろうか?その頃の私は新しい衛星通信の研究として10GHz以上の電波に対する降雨の影響を調べていた時代で、台風の影響が最も大きい沖縄地区での降雨を観測することにしたのである。(その年の1年か2年前に沖縄が日本に返還され、沖縄にもKDDの支社が出来ていた)降雨の測定には測定地点の選定と共に現地の人たちの積極的な協力を得なければならない。
私は山田松一君を伴って沖縄へ飛んだ。羽田発9時頃の日航機であった。
2 その日の機内は・・
その日は比較的に早く空港に着いたので、ステュアデスの前の席に座ることが出来た。私はこの日、少し風邪気味であったので、落ち着いたところで彼女から風邪薬をもらい毛布を出してもらった。私の席は機内進行方向の右側ですぐ傍に2階への階段があり、その左にパーサーがいた。その日は快晴だった。羽田を出発して一時間ほど経った頃、私は不思議なことに気付いた。パーサーが天井を見上げて大きな溜め息をついたり、何度も時計を見るとか・・、階段下の水のみ場に来たのだ。またステュアデス同士がひそひそと耳打ちの内緒話をしている。或いは乗客の中に急病人か産気ついた人でも出たのかなと思っていると、私の前にいたリーダー格と思われるステュアデスが私たちに話しかけてきた。
「沖縄は観光ですかお仕事ですか?・・・そうお仕事で・・初めてですか?沖縄の海は美しいですよ」 と、これまで度々、飛行機に乗ったことはあったが、ステュアデスの方から雑談ともいえる話かけは初めてのことであった。 その直後である。
3 ハイジャックのアナウンス
パーサーから落ち着いた声でのアナウンスがあった。「本機はただいまハイジャックされました。これからは彼らの指示に従って飛行をすることとなります。ご了承ください」
機内にざわめきが起こった。辺りを見渡しても犯人らしきものは見当たらない。全く普通の状態なのだ。
「おいおい、我々は仕事で沖縄に向かうのだ。訓練などに付き合っている暇はないぞ」
と大声で怒鳴る乗客もいた。無理もない。その頃、国内や国外でハイジャックが頻発していた時代であったのだ。・・・すると今度は 「私は本機の機長、石田です。ただ今のアナウンスは真実であります。ハイジャックのリーダーと称する男は私のすぐ隣にいます。・・・こうなった以上は皆さんも我々の指示に従って冷静な行動をしてください。我々も最善を尽くします。・・・これ以上言えないのが残念でーす」
今度は腹腸(はらわた)を絞るような沈痛な声であった。犯人は機長に拳銃か短刀でも突きつけているのだろうか。
機内は一瞬にして静まり返った。
「勝手に席を立たないように、トイレに行くときには手を挙げてステュアデスの指示に従ってください」
というパーサーのアナウンス。
あちこちで啜り泣きが聞こえ始めた。
さて、犯人は何が目的なのか?この飛行機はこれから何処へ向かうのだろうか?この時点から私は機内の様子を詳細にメモし始めた。この日の乗客はほぼ満席で430人と言われ、その多くが新婚と思われる人たちだった。
4 沖縄空港に着陸してからの機内
やがて沖縄の飛行場が見えてきた。我々のジャンボ機は正に完璧といえるような三点着陸、それから大きく迂回して飛行場の端の海辺に停止した。風が強い日であった。沖には大きな浪が立っていた。遠くに飛行場の建物が見えたが、人影は全く見当たらない。森閑としていた。機外の人はこの飛行機がハイジャックされていることを知らないのだろうかと思はれるような光景であった。
やがてまたアナウンスがあり
「本機はこの沖縄で犯人の希望するものを搭載して別のところに向かいます。どうぞ席を立たないで下さい」
時間は刻々と過ぎてゆく。この間、
「給油機が故障していてなお暫く時間がかかる模様です」
とのアナウンスがあった・・、何かやっているなとの期待感も沸くが・・・不安な時間が過ぎた、
およそ2時間も経ってから、機長のアナウンス 「犯人のリーダーと称する男と話し合った結果、ここで老人、婦人、子供、それと病人は降りても良いことになりました。搭乗員の指示に従って該当者は整然と出口の方へ並んでください」
とのアナウンス。
機内はまたざわめきたった。
私の後ろにいた新婚のカップル、今まで泣いていた花嫁さんが急にニコニコ顔となり 「じゃあね・・」
と言って、数歩歩き初めてから・・立ち止まって、ハンドバックの中を調べていたと思ったら、また戻ってきて
「お金が少ししかない、頂戴、それに万一のこともあるから貴方の形見として時計を預かっていくわ」
彼氏は困惑しながら、一万円札を何枚か渡すと共にその時計もはずして彼女へ渡し
「大丈夫か」
と言っていた。私は「この人馬鹿じゃなかろうか」と思った。
女子供ははっきりしているとしても、老人とは幾つ以上を言うのだか定かでない。飛行機を降りる人々の列に並んだ中に、未だ若いのにと思われる人も交じっていた。その人は頭が禿げ上がっているのでこれ幸いと老人の仲間に紛れ込んだ積もりかも知れない。パーサーが 「失礼ですがお幾つですか」
と尋ねたところ、彼は
「42歳です」
と正直に答えたので皆がどっと笑った。彼は恥ずかしそうな顔をしてすごすごと席に戻った。 そのとき、夫婦間での“いさかい”も見られた。
「私は貴方と一緒にここに残りたい」
「女は降りてよいと言っているのだ。万一のとき子供の面倒を見てもらうためにもお前は降りろ」
ともめていたのだ。60歳前後の夫婦であった。
「一緒に降りなさい」
と周りの人たちが彼らを庇うように取り囲んだ。
そのとき、前方座席の方からあのステュアデスが私の方に向かって
「この方はかなりお年寄りの方だと思いますのに、飛行機を降りようとなさいません、英語のできる方、協力してくれませんか」
と・・・、私が近づいてみると70歳前後と見られるその外国人は
「私は元米軍の海軍士官である、昔の戦跡を訪ね、日米双方、多くの戦死者の霊を弔うために、日本へやってきた。私はこんなに元気だ。老人扱いはされたくない」
私が言った
「貴方の騎士道精神は褒めてあげよう。しかし、いま貴方がここに残ることを誰が喜ぶだろうか、この際、一人でも多くの人が機外へ出て助かることをみんなは願っている。・・・文句を言わずに黙って降りなさい」 彼は恥ずかしそうに、にんまりと笑って、渋々と下乗する列に加わった。そのとき、周りから拍手が起こった。機内には急に和やかな空気が流れ始めた。
私もそのステュアデスから
「貴方も風邪を引いているのですから降りなさい」
言われたのが、 「私の風邪はたいしたことはありません」
と断っていた。山田君一人を残して、なんで私が降りられようか。
約半数の人が機内を去った。給油機のトラブルでなお暫く待って欲しいなどのアナウンスがあるのみで、またもや沈黙の長い時間が続いた。
5 犯人逮捕の前後
やがて辺りには夕闇が迫ってきた。このとき、機長からのアナウンスで
「お待たせしました、やっと給油も終わりましたので、犯人の希望に添い、これから飛び立つこととします。その前にお弁当の搬入と機内の清掃のために日航職員が機内に入ってきますが、その間、お客様は絶対に席を立つようなことはしないで下さい」
とのこと。
私は内心、この時に入って来るのは刑事さんでなければならないと思った。ところがお弁当を持ってきたのはいかにも営業担当と言う優男(やさおとこ)、掃除に来たのはまさに掃除夫らしい男であった。うまく化けたなと思った。
彼らが出て行ったと思われた直後、またアナウンスがあり
「犯人のリーダーと称する男と粘り強い交渉の結果、乗客の皆様は全員ここで降りて良いことになりました。乗務員だけが犯人たちと行動を共にします。 一般の方は整然と飛行機を降りてください」
とのこと
機外へ出るとバスが100メートルくらい先に止まっており、そこまで駆けてほしいと言われた。外国で乗客を下ろした直後に飛行機を爆破というハイジャック事件があったのを思い出し、我々は後ろを振り返りながらバスまでひたすら走った。そしてバスの乗り込んだとき、バスの中のラジオは
「犯人ただいま逮捕、犯人ただいま逮捕」
と繰り返し放送していた。バスが空港の建物へ向かうときに目にしたのは、物影に潜む警察官たち、みんな射撃銃を持っていた。また米軍の戦車も見られた。
バスを降りてからも我々はすぐに開放はしてもらえなくて、全員、幾つかのグループに分かれて一人一人刑事さんの質問を受けた。
「犯人を見ましたか、機内の様子は如何でしたか」
と言ったものであった。私がメモを見ながら答えていると 「貴方のお話が一番、正確のようです、そのメモをコピーさせてください」と言った。
それから暫くたって、東京から飛んできたと言う日航社長から謝りの挨拶があり、我々が空港の外に出られたのは深夜となっていた。しかし、そこにはKDD沖縄支社の課長さん以下何人かが迎えに来ていた。彼らの車で宿へと向かった。
6 後日談
翌朝、会社から迎えの車が来て支社長室へ行った。職員がお茶を持ってきたと思ったら、別の職員がすぐにコーヒーを・・、次々に職員たちが部屋を覗きに来たりした。みんな私たちのことを心から心配してくれていたのだ。ありがたいことである。お陰で仕事の話はトントン拍子に進んだ。
後で分かった話であるが、我々の飛行機がハイジャックされた直後、KDDの社内では我々が搭乗していることを確認し、直ちに対策本部が設置されると共に、研究所の玉木次長が救援部隊のリーダーとして我々の飛行機の後を追う段取りが立てられたという。また家の方へも電話があり妻に車を向けるから羽田まで行かないかとの誘いがあったと言う。妻は車に乗っている間も心配だから家でTVを見ていたいと答えたとか。しかし、長い間、こう着状態が続く中で、一人で見ているのは怖くなって、近くに住む妹の玲子に電話をいれ、彼女にも一緒にTVを見ていて欲しいと頼んだとか。生家の方へは連絡しなかった。年取った父母を心配させてはならないと思ったそうだ。
私が沖縄で飛行機から降りてくるとき、その顔がTVで大写しされたらしい。そのとき、妻や子達は
「ああ良かった」
と大声をあげたと言う。そして妻は直ちに丸亀の生家へ電話を入れたとか。
丸亀の家では、その日、小野田さんがフイリッピンから帰国すると言うので、母はお茶を入れた魔法瓶を横にゆっくりとTVの前に座り込んでいたところ、いきなりハイジャックのニュースが飛び込んできたので、
「小野田さんのお母さんはどんなに喜んでこの日を待っていたことか、うちは関係ないものの、あのハイジャックされた飛行機に乗っている人の家族はどんなにか心配なことやろう」
と呟きながらTVを見ていたそうである。
妻が電話を入れたとき母は
「寛は1週間ばかり前にヨーロッパから無事帰ってきたという知らせがあったばかりで、まさか、すぐ沖縄へとは夢にも思わなかった。ああ無事で良かった。助かる前に電話をもらわなくて良かった・・」
と涙声になったと言う。
翌朝の沖縄新聞によれば、7人の刑事の武勇伝が載っていた。
その一人、何とか言う新婚ほやほやの若い刑事さんはハイジャックの報に接して、直ちに空港に駆けつけたが、なすべきことも無く、ただぼんやりと待機していたのだが、夕方になって
「この服に着替えよ」 と上司の人から日航幹部の制服を差し出されたときは『ドキッ』としたと言う。(その日の彼は朝寝坊をして、ろくに新妻の顔を見ることもなく朝飯をかきこむようにして家を出たのだった)
彼は素手でお弁当だけを持って、機長室にいる犯人に近づき
「お弁当をもてきたよ」
と語りかけ、犯人が彼の方を振りむいた途端に、その場で犯人をねじ伏せたと言う。彼は柔道六段の腕前だった。そのときもう一人の刑事さんが犯人の持っていた黒い鞄を奪って機外へ駆け出した。
犯人はその黒い鞄に爆弾が入っていると脅し続けていたらしいが、中には入っていたのはただのラジオだけだったと言う。
我々がハイジャックされて沖縄への飛行を続けているうちに警察は乗客全ての身元を調査し始めていたらしい。後で解った話だが、山田君の家にも刑事さんが調査に来たという。私の家には来なかったようだが・・・。
何しろ沖縄空港は米軍の基地と共用であり、犯人の仲間が空港外にもいて、内外からいっせいにテロを起こすのではないかと、最悪の事態まで想定して、空港への道路を全て封鎖し、米軍の戦車まで出動させて警備を固めていたという。
犯人像とかその目的などについては当時の新聞等を参照されたい。
なおこのハイジャックされた飛行機には沖縄出身の歌手、南沙織も乗っていて、事件直後、週刊誌などに「母と共に語る恐怖の2時間」と言う記事を載せていたのを思い出す。
(2005 年の秋)