[50] Wed Nov 12 11:13:01 JST 2003 投稿者: 石井陽弘 KDD創立50周年記念感想文 私は昭和26年2月電気通信省に入省し、小室無線受信所局内保全課勤務の辞令を今のストラーダ新宿、当時の国際無線管理所で受け取り、任地に向かった、高崎線の上尾という小さな駅で下り,タクシーで約一里2つの田んぼを越えた小高い丘の上にあった。この都市雑音から隔離された約68万平方米の敷地には鉄塔や木柱が林立していた。そして中には野球場,テニスコート,プール等があり職員約100名、家族を含めて約200名が生活していた。官舎は庭付き戸建て約30戸独身寮2棟が建っていた。職員の中には戦時の名残で女子技術員数名が働いていた。 昭和27年8月電気通信省は廃止となり日本電信電話公社(NTT)が発足した。我々はNTT職員となり紺色の制服が支給された、それには帽子、靴、ネクタイもあって、物資不足の当時としては普段着として大いに役立った。昭和28年4月KDDが発足しNTTに残留を希望するものは、岩槻受信所などに転勤していった。当時は短波全盛でテレビの無い時代で、昭和29年のアジア五輪にはマニラ受け受信機に付きっ切りで放送をNHKに送った。昼と夜とでは電離層の減衰が違うのでボーダス(VODAS:東京電話調整所のことでVoice Operated Device Anti Singing即ち短波の送信受信の4線と2線の電話回線を鳴音(シンギング)無く結合する装置から来ている)と連絡とり電波の周波数を切り替えていた。当時”天の樹”というボーダスを舞台にした小説が連載され反響を呼んだ。輪番勤務は一組4~5名で4番制で我々新米は夜食のうどんの作り方から教わった。 独身者20名ほどで純生会という組織を作り、旅行、撮影会、X'masパーテーなどの行事を行った。特に、X'masダンスパーテーは刺激の少ない当地では、近郷近在から娘さん達を呼ぶ心躍る一大イベントであった。当時上尾で買い物をすると、ムセンさんなら付けで良いですと言われ、現金より歓迎された。娘を嫁に遣るならムセンさんにという風潮であった。昭和39年6月TPC-1(第一太平洋横断ケーブルが完成し翌年の2月私は本社の海底線建設本部に転勤となるまで14年間お世話になった。 -------------------------------------------------------------------------------- [49] Fri Oct 17 19:43:25 JST 2003 投稿者: 加藤 正 【KDD創立50週年記念感想文】 思い出の記 (非会員 三鷹市) ◎KDDの思い出。あの終戦のごたごたも漸く落ち着きはじめた昭和25年9月に東北の片田舎から上京し、東京国際電報局へ転勤した。当時は逓信省から電気通信省の所管となっており、27年には電電公社へ、更に国際通信部門は28年4月にKDDとして発足したのである。顧みると本年は丁度半世紀を経過したことろであり感無量である。当時の国際電報局の通信は現波・杵鑽孔(げんぱ、きねさんこう)で慣れるのに一苦労したものだ。間もなく朝鮮動乱が始まり国際電報等の取扱量はどんどん上昇しやがて自動化された。更にテレクックスも、国際電話も年を追うように自動化が推進されていった。これらの自動化の推進については、私も監査課や運用部等で一役を担当した。また運用業務は全て経験した事等もあってか、定年前数年間は経営調査室および考査室におり、各支社、営業所の他、海外事務所(韓国、台湾、ニューヨーク、ワシントン、シンガポール、バンコック等)に出張する事が出来たことは、とても幸運であったと懐かしく思い出している。 ◎近況。会社発足当時は三鷹市に下宿しており、近くにあった会社斡旋の土地を購入、現在地に家を建てた。昭和29年の春のことである。田舎から妻を迎えて新所帯を持ち、来春には金婚式を迎える。しかし残念ながら家内は8〜9年前から老人性痴呆の症状が現れ、定年嘱託を終え、好きなことをやり始めたところであったのに、その介護に追われる破目となった。現在は市内の特別養護老人ホームに入っている。私自身は、健康クラブ、シルバー・スポーツ、ターゲット・バード・ゴルフ、テニスと健康維持の行事が月〜土まで埋まっている。また当市は高齢者への対応がとても活発で、老人会、銀蹊会、エルダリー会、老荘会等と駈けずり回っている。お陰でこの年齢になるまで人間ドック以外は、入院等の経験はなく、また家内の発病後ここ10年余りは食事の用意から家事一切をやらざるを得ず、大袈裟に言えば、病気になる暇もなかった。若い頃田舎で憶えたアルコールの味は忘れられず、殆ど毎日嗜む。また戦後配給制で覚えた煙草も今では1日たった2本だがストレス解消にと嗜んでいる。まあまあ何とか毎日自分を闘いながら健康を維持している昨今である。 おわり -------------------------------------------------------------------------------- [48] Tue Oct 14 22:33:37 JST 2003 投稿者: 八千代市 岡本 誠次八千代市 岡本 誠次 【 五十周年記念投稿】 昭和二十八年KDD発足時には、私は電電公社から自動的に入社と言う形になりましたが、当時の電報局は、取り扱い通信量もうなぎ上りに上昇し、勤務は三交代で三輪番と言われていました。今、思い返して見ますと、粉塵の舞う職場環境での過酷なまでの労働条件、更に、貧しい食料事情による栄養不足から胸を患い、東村山の結核療養所にKDDからも、相当数の仲間が入院していた事を記憶しています。幸いに、退院の許可が出て職場復帰しても、健康管理と言う事で宿直はできず、オール日勤勤務をしている半病人同様の方が、一つの課に必ず数人いた様でしたが、私は幸いな事に、病気で欠勤した事は一度も無く、強いて言えば、五十台の頃に盲腸炎で入院した事だけで定年まで頑張る事ができましたので、この丈夫な身体を与えてくれた両親に、何時も感謝しているところです。 このような国際通信の急激な増加の原因と言えば、皆様がご存知の通り、昭和二十五年六月に勃発した朝鮮戦争に外なりません。又、日本経済も戦後の半身不随状態から突然特需景気が舞い込み、それを契機に高度成長への途を突っ走る事に成る訳ですが、その後の顛末については、皆様すべてご存知の通りですので、省略させて頂きまして、五十年の回顧禄とさせて頂きます。 終わり -------------------------------------------------------------------------------- [47] Tue Oct 14 22:22:39 JST 2003 投稿者: 石原 昭朗 【KDD創立50周年記念感想文】 9月21日受付 定年までの10年間(1981〜1991)テレビ伝送を担当した。マスターズゴルフやウインブルドンテニスの衛星生中継の仕事である。面白くてやり甲斐のある仕事だった。なかでも記憶に残っているのは、冬のオリンピックを中継するため、84年に、サラエボへ出張したことである。 サラエボのオールドタウンは中世の匂いのする、しかもイスラム色の濃い街だった。正午になると回教寺院の拡声器が朗々とコーランを唱えてくる。意味不明だが音楽的でさえあるその美声に、聞き惚れたものである。中庭に、馬をつないだ杭のある古いレストランでは、老音楽師がバイオリンを弾き、街中では南スラブ系の美女が、外国人であるぼくを見て、にっこり笑いかけてくる。定年になったら、妻と一緒にもう一度訪れてみようと思っていたのに、あの内戦である。セルビア人もモスレム人も同じ民族であり、同じ言語を話す人たちであるのに、なぜ憎しみあうのか。荒廃したサラエボの街の映像をみて、やりきれない思いがした。 テレビ伝送の現在は、24時間つなぎっぱなしの専用線か、イベントや僻地からの中継映像は、携帯端末である小型のアンテナで、トラブルもなく行われているようである。当時は、ワシントンのインテルサットに対し電話もしくはテレックスで、 衛星回線の確保に、テレビ局から尻をたたかれながら、狂奔したものである。各国の担当者は、いわば、競争相手であり、出し抜いたり、出し抜かれたり、秘術をつくしたが、ハワイアンオープンゴルフで、青木プロが18番ホールで、逆転優勝したときは、映像を頼まれてシェアしたオーストラリアの担当者から、謝辞をもらったこともある。定年にさいし、担当者の交代を告げるテレックスに対し、それこそ、おおげさないいかたかもしれないが、各国の担当者や放送局からハッピーリタイヤのテレックスが寄せられ、感激した。 おわり -------------------------------------------------------------------------------- [46] Thu Oct 09 11:23:22 JST 2003 投稿者: 奈良市 西宮 煕 【創業50周年感想文】 KDDの想い出 私のKDDの想い出の大部分は広報活動と云えるでしょう。1970年の大阪国際博覧会にチョッピリ関与したのが始まりで、1981年の「神戸ポートピア博覧会 (神戸博)」、続いて1985年の「国際科学技術博覧会(つくば博)」、1990 年の郵政省・NTT・KDD共催の「国際花と緑の博覧会(花の万博)」と多くの博覧会に参画させていただきました。 「つくば博」では「神戸博」パビリオン出展担当責任者の多くが専門知識者(イベント屋?)として勤務されておられお互いに情報交換などパビリオン出展についてご協力をいただいたこともであり、現在でも「つくば博」の仲間として親交を深めております。 特に「つくば博」は国際博覧会としてKDDでは最初で最後の単独パビリオンとして出展いたしました。出展計画から終了までの3年余に亘り参画させていただき、1983年1月社内出展協議会を発足し、出展・建設など計画を進め、1985年3月17日から9月16日の6ヶ月間にわたり、「ふれあい・いまグローバル」をテーマに、深田泰夫館長以下KDD社員19名の他、コンパニオン34名など総員100余名で運営を行い好評裡に閉幕を迎えました。 関係部門の絶大なご協力のお陰で、屋外では「サテライトカプセル」に乗って宇宙の旅を体験し、屋内では「潜水艇」に乗って海底ケーブルに沿った海底の旅を体験するなど人気パビリオンとなりました。また土・日の週末に行った南極観測の昭和基地とつくば博を直接結んでのカラー静止画像は、各方面から多大の評価を受けると共に、南極越冬隊員とご家族とのカラー静止画像による対面交信では愛情のこもった感動的な場面が多く見られました。 「つくば博」の跡地は最早跡形も無く、緑の中に多くの企業等の研究施設が立並び、日本の科学技術の未来に期待したいものです。 以上 -------------------------------------------------------------------------------- [45] Tue Sep 30 21:11:32 JST 2003 投稿者: 姫路市 三浦親雄 【KDD創立50周年記念感想文】 私が就職したのは昭和25年、電気通信省に入省したときである。そして27年に電電公社になり28年にKDDが発足した。以来、平成3年に定年を迎えるまでKDDでお世話になった。 最初は、モールス全盛の頃だった。堂島にあった大阪国際電報局の3階で、昼夜を分かたずに猛烈なスピードで送りこまれてくるモールス信号をテープに記録し、それをタイプライターで翻訳するのが私達の仕事であった。働いても働いても仕事が切れることはなかった。3輪番勤務で年がら年中 「宿、明、日勤、宿、明、休」の繰り返しだった。単調な毎日ではあったが必死で働き、生きがいを感じながら頑張った記憶がある。 戦争中の苦難に耐え、さらに戦後の貧しい生活を送ってきた私達にとって、目に見えて成長していく社会の中で、希望を持って精一杯働くことに生き甲斐を感じていたように思う。 それから以後、印刷通信、OPBなどの新しい通信方式を経験しながら定年を迎える頃には、窓口にまでコンピュータの端末が使用されるようになった。通信の歴史とも言える「モールスからコンピュータまで」を経験してきた私は、日本でも数少ない「国際通信の化石」ではないだろうか。 その間、私的には家族を養ない子供を育て、豊かな暮らしを送ることができた。KDDに勤めたことを誇りに思い、感謝している次第であります。 おわり -------------------------------------------------------------------------------- [44] Fri Sep 26 20:50:32 JST 2003 投稿者: 磯村栄一 KDD創立50周年記念企画 KDD入社直前のこと、昭和32年、最終学年の必須科目「夏季実習」の実習先にKDDを選んだ。極超短波による見通し外通信実験に参加する。実用化のための一連の実験だそうだ。学生の分際で難しいことは判る筈もないが、何よりも就職試験の受験資格を取得出来るとの風聞が有り、これに縋る気持ちが有った。大手町にあった本社ビル8階の臨時極超短波研究室?で一通りの説明を受けた後「写真を撮るから壁際に立て」と言われた。観測は輪番を組んで行なわれるので「そのオフには海で泳ぐであろうから、溺れた時に備えて」と真顔で言われ驚いた。 現場は西伊豆の土肥、松原海岸の波際。8畳位のプレハブ小屋に観測装置、連絡用の短波送受信機などが並ぶ。小屋の傍に2m位のパラボラ1基。これらを使って、門司風師山からの電波を受け、ペン・レコーダー(横河KR1?)に記録する。このシステムで臨時極超短波研究室の社員と学生2人?の輪番体制で観測が始まった。 当時、見通し外通信は話題となっていて、IRE(Institute of Radio Engineering?)は特集号を組んだ程。輪番のオフには技術書の解説があった。教材はその特集号だった。指導は、現 k-unet 代表の石川さん。その石川さんがページを捲りながら主要な論文を解説してくれた。話を聞きながら、見通し外通信は来年の入社試験の一つの話題になると確信した。外国語が不得手な学生磯村は、本社に帰ってから主要論文と格闘することになる。 風師山からの距離のせいか、お目当ての信号は受信出来ない。そんな日が続いたが、ある夜、大事が起こった。午前2時からの輪番に就いてから記録紙を見ると、インク切れで何も記録されていない状態になっていることに気付いた。ペン先を叩いたりしたがインクは出て来ない。情けないことに、この「欠測状態」に学生磯村は舞い上がってなすべきことが判らない。息せき切って、一大事とご注進。就寝中であった和田英明さんに観測所にお越し頂いた。和田さんはペン・レコーダーを一瞥すると、ペン先にスポイトを付けインクを吸い上げた。殆んど無言であったが、その所作は一喝に相当した。これで、KDDとは縁がなくなったと思った。
このような恥ずかしい思いを、折に触れて思い出す。 |