KDDの思い出文集  

ハイコントラスト表示ボタンハイコントラストリセットボタン

 

もくじ

jump 投稿者

主題 副題 執筆・投稿日

   樫村慶一

大昔のパケット通信LAN  〜 鑽孔テープ気送管の話 〜 2024年3月投稿

   金澤政和

電話交換台保守の思い出   2024年1月投稿

   樫村慶一

会員増加を目指した「マンスリーレターの元祖」の誕生の経緯   2024年1月投稿

   樫村慶一

TASという超大型システムがあった話 ~ 半世紀前、KDDに巨大コンピュータ・システムがあったのを知ってるか 2024年1月投稿

   石垣英明

~なぜお坊さんになったのか~ ~後生の一大事を心にかけて~ 2023年11月投稿

   樫村慶一

KDD大阪ドライブクラブの話 ~ 丁度60年前、KDDの大阪にモダンなクラブがあった 2023年5月投稿

◀目次ページに戻る

 

 

ハイコントラスト表示ボタンハイコントラストリセットボタン

大昔のパケット通信LAN

〜 鑽孔テープ気送管の話 〜

 私が気送管を使用した外信課に勤務した時代(1955年頃~1961年)の記憶による

樫村慶一

 KDDが設立され、大手町に新局舎が建設されたのは、通信方式がモールス通信からテレプリンター通信に転換する時代であり、通信室の近代設備として、気送管システムが設置された。鑽孔テープ気送管は、透明なビニールパイプを使用し、各種通信席とコントロール席間を飛走し、その結果、再鑽孔作業を省略することがでるようになった。
 気送管ネットワーク(外信課の場合を例に挙げる)は、それぞれの対外国回線から受信した5単位テープを、宛先によって設置されているコントロール席宛てに送る(註)。パイプの入口には蓋はなく、常時吸い込む状態になっていた。宛先を見て(たとえば国内の他の都市宛てか、自局(大手町の場合都内)宛てか、更に外国回線へ回す中継信かによって)、それぞれの行先のパイプに吸い込ませる。パイプには蓋はなく、中は常に空気が吸い込む状態になっていた。上下のパイプを走るテープは”く”の字になって走るので問題は起きないおが、水平に走るパイプの中では、テープが延び、パイプに静電気が発生して、しばしばテープがパイプの中に張り付き、遅延の原因になった。それを監視し、張り付いているテープを発見すると、パイプを棒で下から叩いて飛ばすのが、管理者の仕事でもあった。
 外信課のコントロール席には、各通信席から受信し外国へ送信するテープがどんどん流れて来る、それを受ける大きなビニールの容器があり、そこへ溜まる。それを取り出して、対外送信席へ人手で運び、席の後側のテープ掛けに、通信席に頭が少しでるように掛ける。オペレーターは、テープ掛けに頭だけ出しているテープを引っ張り出し、送信機にかける。
 この気送管方式も、先の静電気の問題とか他にも欠点があったようで、大阪新局舎では、気送管システムは採用されず、大阪プッシュボタン(OPBシステム)方式が採用された。

 凡そ70年近い年月が経ているので、間違いがあるかもしれないが、覚えている人、間違いを指摘できる人も、もうあまりいないだろう。この時代は、プロ野球では、三原監督の西鉄ライオンズが鉄椀稲尾の3連投で巨人を下し、日本シリーズ3連覇を果たしたり、長嶋が巨人に入り、プロ活動の初日、国鉄の金田に4打席4三振を食らったなどが話題になった時代で、私もまだ25~30歳でした。

(註)外信課のコントロール席(略称トラコン:トラフィック・コントロール席)。 
外信課のほぼ中央に位置し、個別の対外回線からは、以遠外国宛ての中継信が集まる(個別の通信席からのパイプは途中で集約されていたのだと思うが、どうなっていたのか覚えていない)。1階の受付から発信されたものは受付課で鑽孔され、それが鑽孔席横の気送管から送られてくる。国内の他の局や、NTTの局から発信された電報は内信課で受信され、そこからのテープが集まる。こうして、外信課のコントロール席には対外国宛ての発信電報、中継電報のテープが集中する。各対外回線から受信したものの中の、国内宛て、東京都内あては、通信席担当者が、その場で判別して、それぞれ宛てのパイプに流す。本当に再鑽孔を省略しただけのものだった。

① 外信対外通信席の送信テープ。
 外信トラコン席から運び担当が、通信席まで運び、通信席の後ろ側から、送信電報テープの頭だけ前に出して掛けて置く、オペレーターは前から引き抜き送信機に掛ける、

② 何処の通信席が不明だが、赤丸の部分が、着信したテープを次の段階へ送る気送管の投入口。

 

 

③ 国内のテープ作成席だとおもう。原書を見て鑽孔してテープを作り。各席にある外信課あて気送管投入口から投入する。赤丸の中にある水平部分のチューブ内に、しばしばテープが張り付く。

④ 外信課のトラフィック・コントロール席。
左上の赤丸の中に、各所からの発信電報テープが落下してくる。それを宛先により、当該送信回線別に下の赤丸の中に在る各対外回線別のテープ掛けにかける。これを配信係が各回線席に手運びで運ぶ。①の写真参照。

 

図 気送管ネットワークの構成
(筆者オリジナル作成)

以上

2024.3.11

 

  

PDFダウンロード


   

 

 

ハイコントラスト表示ボタンハイコントラストリセットボタン

電話交換台保守の思い出

金澤 政和

 今回のk-unet発足25周年記念に際し、古希を過ぎた私のKDD時代の思い出を忘却しないうちに書き記そうと思い投稿しました。私は昭和47年(1972年)、KDDに入社し、訓練終了後東京国際回線統制局電話席装置課に配属され、主として大手町ビルの電話交換台関係設備の保守を約7年間担当しました。その中で思い出深い事柄をいくつかご紹介します。

(1)交換台ランプ交換
 当時の交換台はXD2形国際電話交換制御台(CBD)と呼ばれ、障害件数(障害伝票の数)の大半が交換台のランプ切れでした。4階の試験課の方々は5階の交換室に何度もランプ交換に行った事を覚えていると思います。1台の交換台には数十本のランプがあり現在のようなLEDではなくタングステンフィランメントの2YW(JIS規格で白色)、4AW(緑色、赤色)というものでした。入社早々、これらランプの長寿命化を検討するよう上司から指示され、degradeすれば寿命が伸びるのではと思い、メーカ(確か「森山電気」)に相談し、定格電圧約70Vのタングステンランプを48Vで動作させるようにした結果、寿命が2000時間から10000時間に伸びました。タングステンランプはカーボンランプに比べて輝度が大幅に明るいためdegradeしても明るさでは問題はなかったからです。我々はこのランプを2YWLと命名しました。ちなみに白色以外の個所には2YWLに耐熱性シリコンラバーキャップ(赤、緑)を被せました。これらのランプはXE-1電子交換制御台に代わるまで使用されました。

(2)ノイズ問題1
 ある時、特定列の一部交換台でオペレータのヘッドセットに雑音が入るという申告が入りました。ハンドセット(スピーカモニタのような物)をかざして申告された交換台の近辺を調査すると、どうも天井付近でノイズが大きくなる。丁度その上の階(6階)はTASの運用室がありました。それで許可を得てTASの運用室に入り、ハンドセットをかざすと二重化されたディスク装置の片系の装置の電源ケーブル付近でノイズが大きくなっていました。あつかましくも「このデイスク装置を止めてもらえませんか」とお願いして、片系のディスク装置の電源を停止したところ、ピタリとノイズがなくなりました。この時、主任クラスのオペレータ(スーパーさんと呼んでいました)から感謝されたことを良く覚えています。当初は原因がわからず、近くに気象庁があり、そこから強い電磁波が飛んできているのではなどど推測されていましたが新人の私が見つけたのでびっくりされていました。

(3)ノイズ問題2
 ある特定回線(不確かですが多分、米軍横須賀フリートロッカークラブ)とオペレータとの通話で「交換機械室内のリレー音のような音が聞こえる」との申告がありました。4階機械室内当該トランクの通話回路のリレー接点をケント紙で磨くとノイズが消えました。後で分析してみると、リレー接点にカーボンが付着していてこれが音声マイクのような動作をして、周辺のリレーの「ガチャガチャ音」を拾っていたことが分かりました。非常に珍しい現象でしたので良く覚えています。

*当時、米軍横須賀フリートロッカークラブとはダイレクトにオペレータと接続できるように構成されていました。

 その他、まだまだたくさんの思い出がありますが、紙面の都合で今回はこれで終了させて頂きます。
もし、皆さんが興味を持たれればま第2弾を投稿しようと思います。

  

PDFダウンロード


   

 

 

ハイコントラスト表示ボタンハイコントラストリセットボタン

会員増加を目指した「マンスリーレターの元祖」の誕生の経緯

樫村 慶一

 

 現在の運営委員諸氏が毎月書いておられる「マンスリーレター」の元祖ともいうべき、k-unetからの発信媒体「今日は、k-unetです!」(別紙)の第一号がみつかりました。パソコンの中を隅から隅まで探しまくり、外付けディスクの片隅に潜んでいました。黴の生えた資料です、まさか俺の出番が来るとは夢にも思わなかったでしょう。その後、下の写真の皆さんによって作られていきました。(写真に入っていない世話人もいます)。その誕生のいきさつを振り返ってみました。

石川会長の那須山荘にて、左から:小畑、樫村、石田、石川、板谷、永田の皆さん

 当時 (2000年初頭頃)は、いかにして会員を増やすかを世話人一同真剣に考えていました。そして出た案は、まずは、別紙のように、k-unet自身からネットワークを通して、会員から友人に勧誘をすすめてもらうために、宣伝メール「今日は、k-unetです」を発信することでした。

 つぎに、年に1回か2回の同友会懇親会の受付け横にテーブルを置き、出席した人達を相手にしつこく勧誘すること。パソコンのない人には買うことまで勧めました。そして、買ったら加入すると言う予約票まで頂きました。かなりしつこい勧誘でしたが、幸い悪評はたちませんでした。むしろ激励されました。設定には出張サービスをすることも言いました。

 さらに、合併前に、早期退職した人が大勢いたので、その人達に加入をお願いすることでした。退職者名簿をどこからか手にいれ、個別に勧誘をしました。その他世話人がそれぞれ親しい友人に当たった例も沢山あります。私自身も、少し前に磯村さんに、トイレの中で誘われたのです。こうして、会員は一挙に400人を超え、500人を目標にしたのです。会員の増加には全世話人が一生懸命でした。ふた昔前のK-unet創成期の懐かしい話です。

  

PDFダウンロード


   

 

 

ハイコントラスト表示ボタンハイコントラストリセットボタン

TASという超大型システムがあった話

半世紀前、KDDに巨大コンピュータ・システムがあったのを知ってるか

樫村 慶一

 2023年はどういうわけか、年紀事象が多いと思う年であった。まずは我がk-unetが創立25周年を迎え、われらのKDDが創立70周年になった。ついでに、的外れになる事を挙げると、ペルーとの友好条約が結ばれたのが150年前、アルゼンチンと修好条約が締結されたのが125年前、さらに今の国連に当たる国際連盟を脱退して破滅の道へ踏み出したのが90年前、プロレタリア作家小林多喜二が虐殺され、我々戦前派には懐かしい国語教科書に「サイタサイタ サクラガサイタ」がでてきたのも90年昔、浅草観音様本堂が落成したり、丹那トンネルが開通したことや、新宿に伊勢丹ができたことなども90年前と、思い出すといろいろあったものである。今年2024年に迎える年紀にはどんなことがあったのか、興味深いところであるが、本題にはいろう。

 25周年を機に(すでに26週年目に入ったが)、いまから53年前になる、半世紀以上も昔の話しであるが、日本最大のコンピュータ・システムがKDDにあったことを、今一度振り返り、知らない人には先輩たちの偉業を是非知ってもらいたい。
 1971年(昭和46年5月24日)、当時では世界最大だったかもしれない、巨大なコンピュータ・システムが大手町局舎の3階に完成した。当時の建設関係者は殆ど鬼籍に入り、そうでない人も、なんとかホームなどの世界に隠遁してしまったと思われる。
 富士通の230-60という当時最新式のコンピューターを使用して、国際電報を自動処理するこのシステムを「TAS」(Telegram Automation System)と言った。世界中の通信回線から受信する電報を国内回線に送り、国内回線から発信する電報を諸外国の宛先に送信する、いわゆるオンラインの24時間稼働システムであった。

TAS処理プログラムのリーダー岡田哲也氏

 システムの建設過程を業務系の立場から見ると、システムの骨になるOS(オペレーション・システム、コンピュータ・システムを動かす基本プログラム、通称シスプロ)は富士通のSE(システム・エンジニアー)が開発したにもかかわらず、肝心の処理の対象物である国際電報を自動処理するプログラム(通称処理プロ)を富士通に丸投げできず、KDDの自社開発と決められたことは、以下の理由によるためであるが、これは後の運用、メンテナンスの面で正解であった。
 電報形式(後述*)のチェック、宛先の国や都市の判別と着信局の指定、優先順位の決定、文字数・語数の算定と、それによる料金算出・記録作成、自動送信、それと受信の処理など、これら国際電報の複雑な取扱をいちから部外者に説明し理解を得るのには、相当な時間が必要であることから、どちらが早くこなせるかとの比較検討の結果、プログラムについては素人ではあるが、我々が作る方が早いだろうとの結論になり、自社開発に決まった。また、すでに国際電気通信連合より自動化のために勧告されていた「F31電報形式(註)」の使用が、世界的に当分の間は普及せず、この処理をどうするかという難問もあった。

システム・コントロール・コンソールを操作中の筆者

 自社開発と決まってプログラム作成の要員に、リーダーの岡田哲也氏と8人の子分が配属され、後10数名補充され、それぞれがまた弟子を抱えるなど一大プロジェクトとなっていった。さらに、富士通の子会社からも10数名のプログラマーが応援にきた。このような、KDDが誇る巨大システムを建設した我々には、胸のすくような達成感と大いなる誇りがあった。しかし、残念ながらプロジェクト発足時の処理プログラム作成担当のKDD基幹要員9名の中で現在もこの世に健在なのは、リーダーであった岡田哲也氏と、子分の一人である筆者の2人だけになってしまっている。

 (註)CCITTの勧告F31による世界共通の電報形式で、ZCZC で始まりNNNNで終わるスペースの中に、発信人の書いた本文の前後に、送信番号、着信国、着信地、語数、優先順位、受け付け時刻等を順序正しく付加して、自動処理ができるように一定のフォーマットに統一した形式。

 当時1960年代は、経済の急速な発展に伴い増大する国際電報の処理に、人力では対応出来なくなる惧れがあるという展望の元に、米国のRCA社、MKY社(後のIT&T)と競って建設したシステムであった。しかし、およそ6年にわたる建設期間のうちに、国際通信手段の媒体は、テレックス、国際電話に移りかわり、電報取り扱い量は減少の一途をたどっていったため、TASは最大の能力を発揮する機会がないまま、斜陽の道を歩む運命になった。   
大手町ビル3階のほぼ半分のフロアーを占有していたシステム構成機器類は、水の泡の如く消滅した。夢の島の造成廃材として、はかない生涯を終えたかも知れない。
 
 しかし「TAS」は、少し先んじて稼働を開始していた米国の二社のシステムと比べて、すべての点で優れていた。岡田氏を除き8人の 侍はもともとコンピューターなどには全く縁がなかった。一般的にも大学や一部の会社の経理処理 にやっと登場し始めた時代、KDD自体でも研究所を除いてそんな職場はなかった。全く知識ゼロからの出発であった。とくに1965年(昭和40年)9月、同システムの試作試験班が立ち上げられたとき、業務系からただ1人参加した岡田哲也氏は、研究所製作の小型コンピューターで、マシンランゲージ(コンピューター言語)による基本的電報処理プログラム「モデル-1」の作成に2年足らずで成功し、コンピューターによる電報処理が可能であることを実証したことは、同氏が適応能力にすぐれ、柔軟なプログラミング手法を駆使して完成させたことは、高く評価すべきである。その後人員増加で新規参入した後輩達と協力して、世界のどこにも存在しなかった「電報処理プログラム」を自社で開発したことは、胸を張って誇れる偉業である。

 プログラムという言葉は意味広大で、映画や芝居のプログラムから、結婚式や種々の式典のプログラムなど多彩であるが、コピュータのプログラムは、全く異質のものである。一瞬一瞬のコンピュータの動きを指示するもので、指示されたこと以外はテコでも動かない。我々は、この融通の利かない一言居士のコンピュータを動かすプログラムを、コンピューターにしか通じない、コンピューター言語(アセンブラー、フォートラン、コボルなど)で書くために、日夜悪戦苦闘してこれを習得した。今にして改めて思い起すと、実に良くやったと思う。連日の徹夜は恐ろしくさえなる過酷な勤務だった。朝には顔に脂が浮き、手はかさかさ、出勤してくる社員には、とてもじゃないが会える顔ではなかった。作業場の長机の上には、灰皿山脈が並び、どれも活火山よろしく、常に白い煙を立ち上らせていた。午前2時3時に丸の内の富士通コンピューター・センターにデバッグ(プログラムの作成修正)に行く途中で警官に職務質問を受けたのも幾度もある。それでも落伍者も病人も1人も出なかった。

 私は、KDD創立時は、出来たばかりの電信電話公社にいたが、そのまま、1953年4月にできたKDDに横滑り入社で、いわば生え抜きである。在職中の一番印象の強かった仕事はと問われたら、このTAS建設時代の作業を胸を張って語りたい。
 今の世、家を一歩出て乗り物にのれば、90%の人たちの右手は携帯電話を握っている。それぞれがコンピューターである。何人の人がそれに気がついているだろうかと思う。大手町の3階のフロアー半分を占拠していた巨大なシステム以上の処理能力が、机の一部に乗るパソコンや、片手に入る携帯電話に移り変わったと思うと、あの頃の苦労は、今の時代からみると漫画のように思えるかも知れない。それでも、70年のKDDの歴史、業績の中でも、十指に入るものだと、今はなき同志の霊と共に誇りに思っている。

 今では、そんなシステムがあったことを、旧KDDの1975年以降入社の人をはじめKDDIでは殆どの人が知らないであろう。しかしフィクションではない。実際にあったのだ。1969年(昭和44年)には、従来ネットワークからTASへの切り替えのために、要員の二重配置を必要としたため、通年の倍近い新規採用があった。いわば全社を挙げての巨大プロジェクトだったのだ。大TASの存在を、KDD70年の歴史の一章として、改めて思い起こしてもらうために、建設要員の生き残りとして、岡田哲也氏とともに亡き仲間の冥福を祈りながら、k-unet25周年およびKDD創立70周年の記念すべき年の、掉尾を飾るレジェンドとしてイベントの一つに掲げたい。
 おわり  (2024.1.10記)

  

PDFダウンロード


   

 

 

ハイコントラスト表示ボタンハイコントラストリセットボタン

 

~なぜお坊さんになったのか~

石垣英明

 

 仏教に最初に出会ったのは、2000年頃です。宗旨が浄土真宗で同じだからと高校の同級生から築地本願寺の仏教壮年会に入会をすすめられたのがきっかけです。仏教壮年会の先輩から、仏教について学ぶには、中央仏教学院の通信教育があるよと教えられ、学習課程で3年間、専修課程で3年間学びました。

 専修課程を卒業し得度習礼を受けるときは、KDDIを退職し何をしようかなと悩んでいたころなので、お坊さんになるのもいいかなと軽い気持ちでした。京都の西山別院修行道場で、13名の仲間と一緒に僧侶になるための得度習礼をうけました。ご門主から度牒(僧侶であることを証明する文書)をさずかり2013年(平成25年)11月13日お坊さんになりました。68歳でした。現在大阪教区都島榎並組の光源寺の衆徒をしています。また築地本願寺の仏教壮年会のお世話をしております。得度式では、僧侶の心得(得度誓約)を暗記させられます。僧侶になって13年ですが僧侶としての自覚がないせいか、煩悩にまみれた生活を送っています。

「僧侶の心得」

 終身僧侶の本分を守り、勉学布教を怠らないこと。
 和合を旨とし、宗門の秩序を乱さないこと。
 仏恩報謝の生活を送り、心豊かな社会の実現に貢献すること

 

~後生の一大事を心にかけて~

 後生とは後にくるべき生涯、一大事とは最も重要なことの意。転迷開悟のことで、生死の問題を解決して後生に浄土に往生するという人生における最重要事をいう。
 蓮如上人の『御文章』第5帖第16通には「たれの人もはやく後生の一大事」を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて(注釈版聖典1203ページ)等とあります。御文章第5帖第16通 白骨章の大意を以下に述べます。
 人の“いのち”のありさまを、心をしずめて考えてみますと、まことにはかなく、まるで夢、幻のような一生といわねばなりません。
 ですから、「今に至るまで、人が一万年の寿命を得たということは、聞いたこともありません。一生は「アット」という間に過ぎ去ってしまいます。だれが百年“いのち”を保ったでしょうか。死の訪れについては、自分が先なのか、他人が先か、また今日なのか、明日なのか・・・を知ることもできません。人の“いのち”の終わってゆくようすは、まさに草の根もとや葉末に宿った露や雫が、先を争うように消し去るようなものである・・・」といわれています。
 このように、朝に若々しく元気な人であったとしても、その夕暮れには白骨となってしまう身の上です。ひとたび無常の風が吹き来たったならば、両眼はたちまちに閉じて二度と開かず、ひとたび息が絶えたならば、若くはつらつとした顔ばせも、むなしく変じて華やかなありさまを失ってしまいます。そうなれば、家族や親族がいくら歎き悲しんでも、どうすることもできません。
 といって、いつまでも遺体を屋内にとどめておくこともできませんから、野外に送って火葬に付したならば、後には白骨が残るのみであります。「哀れなこと」といくらいっても、その深い悲しみをはらすことはできません。
 人の“いのち”のはかなさは年齢を問いません。だからこそ年齢に関わらず、誰もが一時も早く後生の一大事に気づいて、阿弥陀仏を深く頼みとして、念仏を申す身となることが大切なのです。
 人の世のはかないことは、老若にかかわらないことですから、だれもみな後世の浄土往生というもっとも大事なことを心にかけて、阿弥陀如来を深くたのみたてまつって、念仏しなければなりません。
 後生の一大事とは「今ここ」の「この私」一人の問題である。一大事の「一」とあるが如く、唯一無二で、全くとりかえしのつかない問題である。この後生の一大事の答えが「南無阿弥陀仏の六字」の法です。
 では、どうすれば後生の一大事を解決できるのかというと、「他力の信心を決定すべし」と教えられています。
 信心決定すると、地獄に堕ちてながく苦しまねばならない後生の一大事が、極楽へ往って仏に生まれる一大事に切り替わります。 だから、「弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」といわれているのです。
 親鸞聖人のみ教えを通して、後生の一大事とは何か、何のために生きているのか、生死生きる道を心にかけて、むなしく終わらない人生を共に歩んでいきたい。

 

PDFダウンロード


   

 

 

ハイコントラスト表示ボタンハイコントラストリセットボタン

KDDの大阪ドライブ・クラブの話

丁度60年前、KDDの大阪にモダンなクラブがあった

樫村 慶一

 それは、今から凡そ60年も前の1962.3年頃のお話である。現在のk-unetの世話人がまだこの世に現れる前か、精々オッパイを吸っている頃の、遠い昔のお話。KDDの中に唯一、大阪支社と大阪国際電報局合同の超モダーンなクラブがあった。その名は、「KDDドライブ・クラブ」と言った。私が大阪に在籍したのは、1961年春(昭和36年)から1967年春までの丁度6年間である。ところが、不思議なことに、このクラブは私が大阪にいる間だけ存在したのか、東京へ帰ってきた後、その活動の消息を全く聞かなくなった。

 備後町局舎前に勢ぞろいしたバイク組

 当時は、「もはや戦後ではない」というキャッチフレーズが叫ばれ、日本経済が本格的に立ち直り、景気も良くなり、国民も漸く自動車に興味を持てるようになってきた頃である。通産省の肝いりで、国民車「パブリカ」という、空冷700cc、2気筒の大衆車が出てきた。そして、更にその後の車社会につながる手軽な軽自動車も出てきた、スバルが、360ccの2気筒エンジンのカブトムシ型を出すと、負けじとマツダがマツダ360と言う、こっちは軽なのにセダンタイプの小さいながらも高級感を持った車をだしてきた。スバルはいかにも軽らしく、外観も内装も簡便で軽く作ったので、馬力は強く22,3馬力はあったろうか、日光のイロハ坂を大人4人乗せて登ると自慢していた。一方マツダの軽は、枠部分を光るメッキの枠にしたり、バンパーや内装を普通車並みにしたりして重くなり速度がでない。どっちがよいかは人それぞれであったが。
 因みにパブリカは私の記憶では、売り出した頃は殆ど薄茶色一色で、なんとなくごつごつした、薄っぺらい感じの車だった。それに対抗したわけではないだろうが、同じ頃に、三菱500という、ちょいと恰好いい小型車がでた。色は薄緑で、車体は角が程よく取れてスマートで、女  性にもてるダンディーと言った感じの車だった。人気もあった。末尾の写真の車は、どちらも私の記憶と少し違うような気がする。
           

ツアー途中の休憩、前がスバル360、後が三菱500

 KDDドライブ・クラブは、支社のF氏の三菱500、電報局のOさんの三菱500,Iさんのマツダ360、そして、k-unetの創立当時の世話役の一人であった、故石田正人さんのルノーのセンター駆動の恰好いいやつの計4台、それに、2輪車組として、MさんとIさんのホンダ・スーパーカブ50cc2台、Tさんの250ccの大型オートバイ、それに私の50ccのスクーターの4台が参加していた。そして、便乗するサポーターが常に3,4人いた。 
 しかし私は、2年後にどうしても四輪車が欲しくなり、女房に土下座してスバル360の中古を13万円で入手した。(あの頃はこの程度の値段で綺麗な中古車が手にはいった)。定例ツアーをどの程度の間隔で実施していたかは、もう大昔のことですっかり忘れたが、季節ごとには、あちこちに出かけていたように思う。西は天の橋立、東は福井県の永平寺まで、そのほか、関西に多い有名神社仏閣、遺跡、遊園地などを回った。殆どは日帰りだが、永平寺は1泊のツアーだった。

葛城峠で一休み、奈良方面が一望できた

 大阪から他県へ出るには北も西も特に峠のような障害はないが、行く価値のある見るべきところが多い東の奈良県、三重県方面に行くには、葛城山脈というのが横たわており、どうしてもその峠を越えないと行けない。でもそっちへのツアーが多かった。とにかく当時の峠はまだ舗装などはなく、殆どが石ころ道で、バイクやスクーターの様な細いタイヤの車には難所であった。何回も途中で休憩してエンジンを冷やす、人間も冷やす。でも峠から見る景色はどこも抜群で、目の保養が疲れを取る特効薬でもあった。


 k-unetの記念事業のおかげで、全く脳細胞から消えた?と思っていていたことが、まだ健在であったことを思い、60年前に行った懐かしい所のことを、絞り出すように思い出してみた。奈良へ抜けるにはどうしても避けて通れない葛城峠、いつもここで休んだ。とに角景色がいい事だけを覚えている、他にも御所(ごせ)峠、水越峠、二上(にじょう)峠、みなバイクの休憩場所だった。今でも峠なんだろうか。勿論自動車組も休憩である。500cc程度の空冷の車は、峠を登ってくると、やっぱりエンジンが猛烈に熱くなっている。
 千早峠、楠正成の城だったというのだが、へーここがねー なんて言ったような、今はピンボケ写真よりも薄い記憶だ。赤目四十八滝は、自然の滝よりも、大きな山椒魚がいるのが売り物だったし、淡山神社は細い石段の上の鮮やかな朱色の社殿が遠い記憶に残る、長谷寺は両側が牡丹に囲まれた長い緩やかな木造の階段廊下が有名だった。40年後、目白近くに住むようになり、東の長谷寺という下落合の薬王院へ牡丹の季節には必ず行くが、長谷寺というのはおこがましい。ただ清水の舞台に似た高いお堂があるだけ、廊下は全然ないし、牡丹の作付け数も天と地ほどの違いがある。牡丹といえば見事な牡丹だった当間(たいま)寺が忘れられない。室生(むろお)寺は境内が広かった、女人高野と言われ高野山は女人禁制だったので、女性は高野山へ登る代わりにここへ参詣したと言われる、ジェンダーギャップが厳しい今、依然としてそんな古い事言っているのだろうか。まだまだあちこちへ、ブルブル音ばかり高くて大して馬力がない50ccのスクーターのお尻を叩いて走り回っていた。そして、飽きてきた。

 1964年、東京オリンピックの年だ、女房に三拝九拝してスバル360の中古を買った、13万円、不思議に値段を覚えている、まだ綺麗な車だった。ここで問題が生じた、何かというと、私はまだ自動車の免許証を持っていなかったのだ。それまでは、「自動二輪車免許、125cc以下」、という条件付き免許である。昔はこうゆうのがあったのだ、そして4輪車免許も普通免許証に、軽自動車用として、「360cc以下に限定」というスタンプが押してあった、いわゆる「軽免」である。免許がないのに車を買うという、無鉄砲をしたくらい4輪車が欲しかったのである。当然なことながら。免許をとるために自動車学校へ行かなくてはならない。ところが、私の居た宝塚社宅からは、最短の自動車学校でも神戸まで行かなくてはならない。そこで考えたのが、社宅にいたドライブ・クラブのメンバーに教わることで、そのため社宅から近い武庫川の河原に行って習った。当時は、学校に行かなくても、そうした空き地で練習しても免許は取れた、ただし、裏があって、学校で仮免許をもらっておくと一発で取れるが、自習者は絶対に1回では合格させてくれない、最低で2回目である。私は幸い2回目で取れた。上記の「軽免」という条件付きである。初めて宝塚から大阪市内備後町の局まで乗った時のことを、今まざまざと思い出す。梅田(大阪駅周辺)の広い交差点を横断するのに、額に罰金の1万円札を張ったような気分で、右左をびっしり車に取り囲まれた中を、きょろきょろしながら、時速5キロくらいで渡ったろうか?その後だんだんと図々しく、慣れてきたものである。そしてドライブ・クラブのツアーよりも、買うことを認めてくれた女房殿に報いるため、関西の名所旧跡を走り回った。東京へ帰ってきても、暫くはスバルのレンタカーに乗って出かけた。噂にたがわぬ丈夫で馬力の強い頼もしい車だった。大阪でも東京でも忘れがたい楽しい想い出を沢山作ってくれた。

 この軽免許証はアルゼンチンへ赴任・帰任するときに、魔法を使ってくれた。国際免許証に書き換えるのに、外国に「360cc以下」なんて条件はないから普通免許の国際免許証をくれた、そして「くれぐれも大きな車を運転するときは注意するように」といわずもがなことを付け加えた。余計なお世話だ、当たり前だろ、と心の中で舌をだした。そして、現地で国際免許をアルゼンチンの免許に切り替え、帰国時はまた国際免許にして、日本で普通免許に切り替えた。その結果、結構高いお金のかかる普通免許への切り替え試験とやらは、煙の如く消えてしまった。

 

 最後に、k-unetの創成期に活躍され基礎造りに功績のあった故石田正人さんの、KDD大阪における、宝塚社宅内における、車・テレビ社会到来を予期したような、更には会社には何の記録も残っていないであろう「唯我独尊的生活」のお話をして終わりたい。
 石田さんは私と同じ宝塚社宅にいた。私は第4棟、石田さんは第1棟。1棟は社宅の塀から一番遠いのに、石田さんは塀を利用して三方を囲い、愛車ルノーのガレージ兼修理工場を作ってしまった。中には巻き上げウインチから作業台、工具など一式揃っていて、私のスバルも分解調整してもらったりした。支社からは撤去しろと再三言われていた。漸く自家用車への関心が高まり始めたモーターリゼーションの初期の時代に、自分でドイツ製の車を分解する能力を持った石田さんは、車の神様であった。東京には、このようなモダンな愛好会はなかったと思う。さらに、石田さんにはもう一つの特技があった。それは、中古テレビの修理・販売である。彼の部屋には、中古のテレビがまさに、処狭しと置いてある、常時10~20台くらいはあったろうか。私も何台が買った。安いしアフターサービス付きだし、嫌なら他のに取り換えてくれる便利さもあった。石田さんが、いつ東京に出てきたのか知らないが、本当に当時の先端技術の多彩な方だった。そしてお酒も強かった。K-unetの世話人の頃は不動産屋のまねごともしていた。
 東京人ではないのに、k-unet創成期 (2001~2008ころ)の世話人会の2次会は、いつも田町駅前地下の、美人女将の店につれていってくれ、だまっていても、ほっけの塩焼きから会が始まるのが常であった。ドライブ・クラブの話から、とんだ方面へ話がとんでしまったが、もう先が見えた人生では、後ろばっかり見ているせいか、嫌なことも混ざった、それでも懐かしい想い出が尽きない。このお話はこの辺で。おしまい (2023.12.20) 
 

 

スバル360

前の窓が3枚になっているが、売り出してじきに、3角窓と2枚になり、バンパーも1本になった。、ヘッドライトが奥へへっこんだのは大分後のモデルだと思う。ボンネットの中がトランク。エンジンは後ろ付き。

三菱500

 私達のドライブ・クラブの会員が乗っていたのとは、全然違う。クラブの車は文中の写真にあるように、ボンネットがもっと低く水平に近く、トランクも低く平で、テールランプが立っていて格好いい。年代が違うのだろう。

パブリカ

 最初に売り出した当時のものと違うように思う。最初のは、空冷でエンジンが前なので空気取り入れ用のフロントグリルがこんな2段ではなく、ボンネットも一枚の単純なものであったように思う。それに、ヘッドライトとウインカーとがどうなっていたか覚えていないが、こんな形ではなかったように思う。
 三菱もパブリカも売り出し当時の記憶は薄くなっているが、違うと思う部分は案外覚えているものだ。

 

PDFダウンロード